PS4のスパイダーマンをクリアした

 ゲーム史上最も快適な移動手段でニューヨークを回れる。写真も撮り放題。

 そんなシステムが成立しちゃった時点で、このゲームには単なる「キャラゲー」を超えた価値があるんじゃないかと思ってしまう(もちろん、キャラゲーとしても破格の出来ですが)。

 常人には不可能なレベルでハイスピード観光を敢行できる、という魅力は想像以上に強かった。「MGS2のラスボス戦会場にいける」って話を聞いた瞬間はやっぱりすごくときめいたし……「ゲームの聖地はゲームの中で巡礼すればいい」という時代性に激しく感動している。もちろん行きましたとも!

 

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 デモが起きていた。

 

MGS2』ネタといえばオープニングの「雨降る夜にステルス迷彩で橋から飛び降りるアレ」とかも擬似的に再現できそうだったので今度試したい。ちなみに、フォトモードのフィルターでSFモードを選択すると、色味まで当時のメタルギアっぽくできる。いいセンスだ……。

 

 とにかく、「リアルとフィクションのいいとこ取り」みたいな究極の箱庭。個人的には完全にフィクショナルな空間だった『アーカム・ナイト』のゴッサムシティよりも感動が大きかった。これだけ広いとイースターエッグの報告もひっきりなしにあるんだけど、そういう情報を血眼になって漁るのが今はすごく楽しいです。

 で、イースターエッグの中で個人的に一番印象的だったのはやっぱりこれ。ビルの窓ガラスに反射するツインタワー。

 

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 マップ上にはない(あるはずがない)WTCツインタワーがすぐ近くの窓ガラスに映っている。ちょっと不気味な演出だけれど、「本物」の「幻」を映し出す意地を感じた。9.11の直前に発売されただけあって、一生忘れないゲーム演出の一つになりそう。

アベンジャーズタワー」や「ワカンダ大使館」がしれっと建っていることからも分かる通り、この作品はただリアルなだけの街を作りたいわけではないのだろう。ストーリーの終盤ではこのニューヨークがありえないレベルで崩壊していくんだけど、その時に覚える危機感も独特だった。

「移動するだけで楽しい」という評判は単にスパイダーマンの動きが面白いというだけじゃない。何が言いたいかというと、写真好きは買え。

 

・おまけ、という名の愚痴

 相対的にバットマンの『アーカム』シリーズの評価が下がってきているのはちょっと残念。「インソムニアックがアーカムシリーズでやっていたことを全部スパイディに盛り込んだ説」はクリアすると一層強く感じるのですが、あっちのシリーズにも良いところはいっぱいあった。

 たとえばホラーゲームすれすれの「精神世界演出」はバットマンの方が圧倒的に面白かったです。『P.T.』よりずっと前からこういうシーンを取り入れていただけあって、『アーカム・ナイト』終盤の迫力は改めてすごいなと思った。クリア当日の熱量でさえ、ストーリーはバットマン派だと冷静に感じている自分がいる。

 

 あとさ、本作の顔であるスパイダーマンのアドバンススーツ、正直ダサくね? あのスポーツウェアみたいな白ラインとか、ナイキのロゴが入ってそうな靴が自分の好みと逆行していて微妙だった。

 ずっとスタークさんが作ったスーツを使い続けていたんだけど、頭だけ外した状態のシーンは強制的に元のスーツに戻される。一部の重要シーンで「なんだかなあ」という気持ちになるので、慣れといた方がいいです。

 些細なわがままだ。逆にいうと、このくらいしか不満がない。

 

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 個人的に「スパイダーマン」はすごく因縁のあるキャラクターだった……いや、あまりにも特殊な事情なのでネットに晒す気は無かったのだけど、このゲームをきっかけにその辺の「経験談」も文章化したくなってきた。困る。

 つい3年くらい前までスパイダーマンが大っ嫌いだった。大学以前の僕を知っている人なら、今このゲームに熱中していることにかなり驚いたと思う。その辺も踏まえて、学生時代最後の夏に遊べて良かったタイプのゲームでした。今度話すね。

PS4のスパイダーマンを三時間くらい遊んだ

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「実写だコレ」

 これは『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』のアイアンスパイダースキンを使ってニューヨークを飛び回った感想。元の映画がCG使いまくり(スパイダーマンは全部CGだろ)だったこともあり、「実質的に実写」である。最近のMCUシリーズのCGになんか違和感を感じてしまう身からすると、むしろゲームの方が「リアル」なんじゃないかという意味のわからない錯覚に陥ることもあった。危険な兆候だ。

 

 それでなくともこのゲームはすごい。広大なニューヨークの端から端まで数分で渡り切れてしまう、贅沢なスピード感。そびえ立つガラス張りのビルをするすると登り、飛んで、また別のビルのガラスを這う。どこもかしこもガラスまみれ。それらを片っ端から登れる、というのは一体何を意味するのか。

 それは、ガラスの内側をちゃんと作らなきゃいけないということだ。

 プレイヤーの大半はガラスにうっすらと反射したスパイディを見て悦に入るだけだろうに、作り手はニューヨーク全体の「ガラスの中」をいちいち作ってしまったらしい。どうかしてるぜ。インソムニアックから死者は出ていませんよね?

 たとえば『MGS2』の冒頭シーンみたいな、スネークの体にぶつかる雨粒のみで「雨」を表現する、的な演出面の工夫ももはや必要ないらしい。スパイダーマンはそうした「雨粒」を全部描いてしまうという域に達している。危険危険。HQHQ。

 

 高度なグラフィックで表現されたニューヨークを、スパイダーマンという非現実的なヒーローになって飛び回る快感。言うまでもなく、これは既に現実を超えている。アブナイ。そういえばこのゲーム、落下ダメージがないのが移動パートの楽しさを引き上げている気がする。無駄なストレスがない。

 でもこれって大丈夫なのか。『ブレスオブザワイルド』のリンクはその辺で勘違いさせないために落下ダメージ入れた、って話をどこかで見たけど。うっかり死者とか出ちゃうんじゃないか……でももうしょうがないか、面白いもんな!

スパイダーマン』のせいで現実がより一層億劫になる。いや、現実とゲームの「区別」を自分はいつまで維持し続けられるのだろうか。マジで危険だ。俺はいつか、うっかり現実の屋上から他のビルへ飛び移ろうとして落下死する気がする。そうなったらもう、「幸せそうだなアイツ」と笑ってください。

 

・余談

 上記のような技術的な感動はいっぱいある(それだけで触れる価値はあると思う)けど、ゲーム内容的にはまだ予想を超えるようなシーンがあまりないです。

 操作系はみなさんの予想通りアーカムシリーズに似てますが、個人的な印象はアーカムメタルギアライジング、って感じです。ニンジャランがあります。アーカムにめっちゃ似てるけど、アーカムと同じ感じで四角ボタンを連打してるとボコボコにされると思います。単純に難易度が高いです。バットマンより複雑です。僕はアクションが下手くそなので、最初のボスまでに10回はコンティニューさせられました。自分の中の天才ゲーマーMが泣いている。

 あと、英語音声を選ぶと字幕も全部英語になるという仕様なので、実質「吹き替えしかない」と思ってください。本作に関しては別に文句とかないんだけど、『アーカム・ナイト』の吹き替えが嫌で北米版を買いに走った思い出が蘇った。

ガーディアンズ・オブ・東都

ameblo.jp

 

 唐突に『仮面ラジレンジャー』のことを思い出してブログを漁っていた。ビルドの出演者がゲストの回、主役の犬飼貴丈氏が『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(以下GotG)』のヨンドゥのシャツを着ている。

 

 そこまではいい。

 

「1人のヒーローとして、ジェームズ・ガン騒動に一言物申したいのかな」とか、そういうことが言いたいわけではない。何が問題かと言うと、彼の背後にいる金尾哲夫氏(エボルト(ラスボス)役)だ。彼は『GotG』の二作目で「エゴ」というキャラクターの吹き替えを担当している。

 

 ヨンドゥとエゴ。

 

 この二人がどういう関係にあるか、映画を見た方ならお分かりだろう。つまり、このジュノンボーイは完全にエボルトに喧嘩を売っているのである。素晴らしい。

 犬飼氏のいろんなセンスの良さはビルド本編からもにじみ出ていたので、今後全力で注目していきたい。そう思っただけの日記です。

平成の呪い

 巨大なG  少なくとも、ここ数年で見かけた中では最も大きなあずき色のGが、自室の本棚の下に潜り込んだ。どうすることもできなかった。

 

 午前中は『アントマン&ワスプ』を観てご機嫌だったから、自分は虫にもう少し耐性あるものだと思っていた。が、Gの潜む部屋で電気を消して眠る”ヴィジョン”を思い浮かべるとそれだけで額のマインドストーンが砕け散りそうになる。その場の思いつきで部屋全体にブラックキャップを設置し、リビングに退避することにした。

 

 廊下を抜けてリビングにたどり着いた瞬間、僅かな段差に左足の小指をぶつける。普通に痛い。いや、普通以上に痛い。なんかいつもとは違う。よく分からない。しばし悶絶する。

 

 8月31日。一介の大学生からすれば、まだまだ夏は続く気でいる。しかし、不覚だった。リビングでは高校生の弟が徹夜で宿題をやっていたのだ。その辺に適当にマットを敷いて寝ようとしたが、奴は三十秒に一回うめき声をあげる。うるさい。

 寝落ち対策でテレビを点けてやがる。うるさい。

 全米オープンナダルが戦っている。寝かせろ。

 

 結局、本当に一瞬だけ意識を失うことに成功したが、二時間もしないうちに「レポートが提出できない」と叩き起こされる。

 筆者はGが無理だからこの部屋にいるのであって、お前の介護に来たわけではない。しかし、奴はうるさい。まさかお前、このために部屋にG放ったわけじゃないだろうな。午前中に『アントマン』を観たせいか、虫に謎の戦略性を見出してしまう。

 

 そして、なんやかんやで朝が来る。

 

 やけくそでコーヒーを飲んでいると、つま先に小さな違和感を覚える。視線を下ろすと、左足の小指の爪の上半分が、知らぬ間に消失している。繰り返す。小指の爪の長さが半分になっている。

 

 

 サノスか?

 

 

 マインドストーンは昨晩Gが砕いたはずだったが、気がつくと奴の手中にあったらしい。サノスはインフィニティガントレットの力を使い、愚かにも足の小指の爪の長さを半分にしやがった。何を危惧したらそうなるんだ。

 その指パッチンには何のタクティカルアドバンテージもないが、九月が始まる。Gはまだ発見できない。

 

 

【2018夏】平成の最後の夏の映画の感想の話

 約一週間で映画館に5回も通ってしまった。どうかしてるぜ。せっかくなので全部感想を残しときます。文章は「観た順」ではなく「個人的に面白かった順」です。ただし、基本的に全部面白いので誤差みたいなものです。『ウィンド・リバー』が良すぎたのが悪い。

 感想書いた日がまちまちなので文体とかもバラバラです。観た映画が増えるごとに無言で追記するよ。

 

・『ウィンド・リバー

 この夏一番の冬映画(春)。

 

 よく、「映画は映像で語るべきだ」という話を目にする。映画と小説は違うのだから、重要な事柄は役者に言葉で語らせるんじゃなくて、はっきりと画面に映すべきなのだ、と。

 しかし、「見せない/見えない」ことも映像の一部である。たとえば、ホラー映画は恐怖の対象をはっきりと「見せない」ことでより一層怖くなるし、対象の姿が見えすぎると却って萎えてしまうこともある。

 ホラー映画とは少し違うが、デビット・フィンチャー監督のドラマシリーズである『マインド・ハンター』なんかは、シリアルキラーの話であるにも関わらず「死体」がほとんど画面に登場しない。その惨状は殺人鬼自身の口から朗朗と語られるのだ。自分が被害者をどのように追い詰め、そしてどのように殺し、死体をどのように「装飾」したのか――異常殺人の様子は映像ではなく言葉で示される。『ファイト・クラブ』のサブリミナル演出や『SE7EN』の「箱の中身はなんじゃらホイ(悪夢)」からも分かる通り、あのフィンチャーも実は「見せ過ぎない」ことを武器にする映像作家だった。

 本作『ウィンド・リバー』もまた、ある意味では見えない映像の傑作だ。テイラー・シェリダン監督が作品の舞台として選んだ大雪原は、その広大さ故に視覚的な情報が存在しない。死体を発見するのも一苦労だし、唯一の手がかりである足跡もわずかな時間で消失してしまう。

 しかし、上記の作品群と異なるのはそれが「舞台設定」であって「演出」ではないという点だ。それは作り手の意図を超えた「現実」そのものの問題であり、作中の登場人物たちも嫌という程認識している極限状態なのだ。

 本作の登場人物は今時珍しいくらい饒舌だった。「ウィンド・リバー」に住まう人々には、物事を言葉にしようという意識がある。なぜなら、被害者である「彼女」が走った距離の重みは、言語化することでしか伝わらない。『マインド・ハンター』の殺人鬼とは対象的に、本作は「被害者」や遺族の視点から、虚無を駆り立てる雪原を情緒豊かな言葉によって埋め尽くそうとしている。

「現代」の話とは思えない切実さ。だからこそ、この夏一番突き刺さった雪国の映画。お願いだから、『ウィンド・リバー』を観に行って欲しい。『アベンジャーズ』と『ミッション・インポッシブル』で姿を消したジェレミー・レナー成分をたっぷり味わえますよ。観に行ってね♡

 

仮面ライダービルド

 夏休みといえばポケモンよりこれ派。『アマゾンズ』に結局行かなかったので特撮久々。

『劇場版ビルド』はアクションよりも「人ゴミ萌え」するよい映画だった。

 人ゴミ萌え、というのは読んで字のごとく「大量の人間がぞろぞろ動いている姿(俯瞰視点)に興奮する」という僕の体質です。最近だと『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』でルーナが生存者に紛れてぞろぞろ歩いて行くラストとか、それこそ『アマゾンズ』のシーズン1ラストでぞろぞろするシーンとか、あの独特のキモさがグッとくるじゃないですか。

  加えて今回は「人」の扱いが本当に「ゴミみたい」だったので(エキストラそれでいいのか、と思ったりもしたが)、別の面白さが加わっているようにも感じた。

「人がゴミのようだ」という比喩じゃなくて、「そもそも人はゴミだ」と言わんばかりのクソ大衆ムーブ。しかも洗脳が解けた後すら(いい意味で)後味悪い。ライダー衆愚である。

 で、その露骨さがビルドのヒロイズムを明確にしちゃうのだ。もともと「仮面ライダービルド」で描かれるヒーロー像は本当に素晴らしいよね。「ライダーとショッカーは本質的に等価」=「仮面ライダーは軍事兵器」というお約束の読み替えとか、「悪魔の科学者と呼ばれた男が思い描いた守護聖人像」=「桐生戦兎」=「仮面ライダービルド」という主人公の設定とか、なんかもうすごいのである。半ば強引に「正義のロマン」を見せつけてくるこの作品のあり方が僕は本当に大好きで、正直平成二期で一番推しているヒーローだったりする。勝利の法則にガンギマリだ。

  ファイズの一万人エキストラより僕はこっちの方が好きかもしれない。

 

・『ミッション:インポッシブル フォールアウト』

 イーサン・ハントよりトム・クルーズの方がやばいことで有名な一作。IMF工作員のイーサンは一度きりのHALO降下を見事成功させるが、トム・クルーズは俳優なので同じジャンプを後100回繰り返す。

 

 そういう仕事だ。

 

MGS3』の冒頭と同じあの「HALO降下」を実写で観れる、それ自体はもちろん眼福極まりない。しかしこの撮影、下手したら死ぬ。

 

 そういう仕事だ。

 

 HALO降下は数あるアクションシーンの一つに過ぎず、本作の中でトムは決死のアクションにノースタントで挑む。一つ一つの撮影が命がけであることは、たとえば車の助手席に座らされたショーン・ハリスの鬼気迫る表情を見れば分かるだろう。

「下手したら死ぬ」の連続を見ながら、観客はこの映画のあり方をメタ視点で捉え始める。この映画のプロデューサーが誰かは知らないが、間違いなくトム・クルーズに殺意を抱いているに違いない。本来ハリウッドセレブはここまで過激なスタントに挑戦してはならないのだから、金を払ってでもトムを事故死させようという「意思」を、僕たちは感じずにいられないのだ。

 

 しかし――ネタバレになってしまい申し訳ないが、エンドクレジットでは衝撃の事実が明らかになる。なんとこの映画のプロデューサー、トム・クルーズ自身なのだ。

 トムを殺そうとするのはトム自身。シャマランもびっくりのどんでん返しによって、この作品は「メタフィクション構造のサイコ・サスペンス」として歴史に名を残すことになるだろう。なったらウケるな。

 

・『オーシャンズ8』

 ケイト・ブランシェットがかっこよくて、エル・ファニングの姉がかわいい。

 そんな「あたりまえ体操」みたいな映画だけど、全部ちゃんと絵になるからずるい。おもろい。

『フォールアウト』とは対照的で、「弱みを見せる必要性」が全くない映画ですね。撮影はハードだったらしいけれど、決して命がけではないだろうし(比較対象が『フォールアウト』なのがおかしいんだけど)。

ウィンド・リバー』とは比べ物にならないほど視覚情報に恵まれているので、特に何かを指摘しておく必要はない。何もいうまい。ただ、次回作があればエマ・ワトソンを「クソみたいな金持ち役」とかで出して欲しいですね……。

 あと、ダコタ・ファニングの妹もカメオ出演してね。

 

・『ペンギン・ハイウェイ

 虐殺器官のエピローグを消滅させたプロデューサーが、また子供達の思い出から大切なものを消し去って行く映画。そんな風に捉えてしまう僕の認知が明らかに歪んでいるだけで、決してつまらない映画ではないと思う。

 

 

 ……という前提で。

 

 

 序盤も序盤、アオヤマくんが道路を突っ切った時に急停車する車から、一瞬間をおいて身を乗り出した女性が一言「こらーっ!」と叫ぶじゃん。原作の冒頭にあの車は出てこない。つまり、あの車はアニメの演出として出現した「演出カー」だ。もちろん、その出現自体は問題じゃない。

 でもちょっと、違和感ある。キャラクターの行動原理が「演出意図」以外に何もないアニメーションって、僕はそこまで好きじゃない。で、そう言ってしまうとこの映画の99%くらいが楽しめなくなってしまう。困った。

 良くも悪くも、ここまで整理整理整頓の行き届いた映像を久々に観た気がする。とにかく、白黒はっきりし続けた映画である。動きに迷いがない。キャラクターの口調も森見口調/その他口調がきっちり分かれていて、前者には俳優、後者には声優というキャスティングも含めてかなり露骨に感じた。これって原作通りなのか。原作はここまで明確にキャラを「差別化」していたのだろうか。

 もともと整理されていた原作をさらに整頓してしまった。そういう印象がある。ただ、そもそも森見登美彦原作のアニメ作品が面白い理由って、ウェットな人間ドラマを細部から排除している部分にあるのだから、動きの細部に「奥行き」なんてくだらないものを求める僕の方がナンセンスなのかもしれない。

 でも、『ペンギン・ハイウェイ』が本来持っているはずのツァイガルニク効果……ようするに「永遠の空白」じみた答えのなさ……に対してああいう「くっきり」した演出のスタイルは相性が悪い気がする。正直めちゃくちゃすっきり終わってしまった。後腐れがない。

 何が言いたいかと言うと、原作のエピローグをカットした後にいきなりゴリゴリのEGOISTが流れ始めるくらいの冒涜がないと俺はもう作品を「引きずりたい」気分にはなれない体になってしまったということだ。責任を取って欲しい。

【感想・考察もどき】『13の理由』はいかにして自殺を描いたのか(シーズン1)

1. A面:ハンナの視点

「自殺」に関する誤解。

死の前後において部外者がやってしまいがちなミスとして、「大きな理由」のみを追求してしまう、というものがある。

自らの命を絶つほどのことをしたのだから、その人はきっと重大な「事件」に巻き込まれたのだ、と。そう思い込んだ結果として、僕たちはレイプや虐待のような「事件性」のある出来事ばかりに注目し、小さな出来事に目を向けなくなってしまう。

これは本当によくない考え方だ。全ての自殺者に、必ずしも大きな引き金があるとは考え難い。むしろ、「小さな理由」を少しずつ蓄積することによって、人の思考は少しずつ自死へと誘導されてしまう。

たとえるなら、それは格闘ゲームの「コンボ」のようなもの。現実世界で人を殺すのは、決して必殺技ではない「小ダメージの連続性」だ。日常のいろんな場所で、人は少しずつ「傷」を増やしていく。そのひとつひとつが些細なものであっても、休む間も無く悪い刺激を受け続けると、やがてひとつひとつのダメージが「繋がっている」ように錯覚してしまう。

本当に人を殺めるのは、この連続性の延長上にある「八方塞がり」の感覚なのだ。苦痛はこの先も繰り返される。現実はもう対処不能だ……そう思えて初めて、人は自らの命を断とうとする。

だから、最後に人の背中を押すのはいつだって、ひどく些細な出来事だ。

「若者にとって大事なことを、大人は軽く考えがちだ。若者は大人と違って、いまの苦痛が”永遠”に続くと思ってしまう。そして大人はそれを忘れる」

『13の理由』シーズン1の特典映像の中で、制作総指揮を務めるブライアン・ヨーキーもこのように指摘する。ハンナ・ベイカーという少女が作中で経験する悲惨な出来事の「規模」は大小様々だった。目を覆うような暴行や、取り返しのつかない事故などと比較すると、例えば彼女がSNSで受けた中傷や陰口(slut-shaming)の事件性はやはり低く感じられる。とりわけ主人公のクレイ・ジェンセンが彼女にとった行動は全て善意によるものなので、彼を理由の一つとして数え上げる(=一部の「犯罪者」と同列に扱う)ことは、クレイにとって酷であるとしか言いようがない。 

けれど、やはり「理由」に大小などないのだろう。テレビドラマのエピソード形式を巧みに利用し、本作は「13の理由」の全てに同じ分量の時間をかけ、同じ悲痛さを感じさせるように作り込んである。大きな事件にばかり目がいくような物語にせず、小さな問題を無下にしない構造を取っているというのが、このドラマが傑作である理由の一つ。

 

2. B面:クレイの視点

クレイとハンナは仲が良かった。堅物の彼は時にその性格をハンナに茶化され、時にその鈍感さで彼女を怒らせてしまう。様々なイベントを通して進展していった二人の関係は、けれど実を結ぶ前にハンナの自殺で断ち切られる。本作の物語は、全てがすでに「終わった」状態からスタートする。 

ハンナの感情に寄り添って制作されたドラマの中で、結果的に最も報われない役回りに当たるのが本作の主人公、クレイ・ジェンセンだった。『13の理由』では、ハンナのテープで語られる彼女のドラマと並行して、当時の二人の関係性についてもクレイの目線から回想されていく。それはあくまで回想に過ぎず、後から思い返したところでどうにもならない。クレイはそれを自覚しているからこそ、誰よりもテープの内容に傷つけられるのだ。

本作の「エンタメ性」を盛り上げる要素の一つに、ハンナの両親がクレイたちの学校を訴える、というものがある。ドラマ開始時点では、両親もハンナの自殺の「大きな理由」を把握しようとしていた。ハンナがいじめられていた可能性を危惧し、疑心暗鬼になった夫婦は度々学校に乗り込んでは、教師や保護者、そして一部の生徒たちを困惑させている。

クレイの母親が学校側の弁護士として登場するなど、その進展は確かにドラマの緩急を作り出した。しかし、本来なら最も重要なシークエンスである結論、つまり「判決」の場面において、このドラマは急に失速し始める。

本作では、物語の中で明確にだれかが裁かれたり、罰を受けたりするシーンがほとんど描かれていない。ハンナの死後にカタルシスが得られるような作りになってしまうと、それは本当の意味で自殺を描くドラマにはならないからだ。製作陣は徹底して作品から「罰」を取り除き、クレイに一度理不尽と戦うことを要求した。

終盤に向かうにつれて、ハンナの死の不可逆性はより露骨に描かれるようになっていく。本作にはもう一つ、非常に残酷な演出があった。「回想」と「夢」、そして「現実」を同質に描くことで、その境界を曖昧にしているのだ。

「ハンナがいれば回想、いなければ現在」というようなわかりやすい区別をつけることができず、視聴者は時折その境界を見失ってしまう。「ハンナは死んでいる」という事実を時折忘れさせるような描き方を、このドラマはわざとやっている。

これは単なる意地悪でやっているのではなく(いや、実際意地は悪いと思うけど)、他人の死をリアルに描こうとした結果なのだと思う。なぜなら、人の記憶は基本的に死者と生者を区別しない。今、この瞬間に死んでいるはずの人であっても、記憶の中で思い返す限りは生きている人と同じように「想起」されてしまうのだ。

「喪」というものの恐ろしさは、実はここにあるのだろう。クレイはカセットテープという形として回想を強いられ、結果として今、ここの空間に彼女の影を見てしまう。演出としてそのように描かれているだけでなく、実際に病的な幻聴や悪夢に苦しめられるシーンもあった。彼の記憶の中でハンナは生き続けてしまう  その恐ろしさを視聴者に体感させる仕組みとして、本作は「記憶の実質化」を演出に取り入れた。

いくつもの回想を経た上で、ハンナの自殺シーンは最終話でようやく描かれることになる。作中で最も痛ましいリストカットの描写を通して、視聴者はやっと「彼女が死んでいる」という事実を認識し始める。

クレイは最後の数エピソードの中で、彼女を傷つけたある事件の証拠をつかむために奔走することになる。もちろん、最終的に手にした「証拠」がどのように利用されたは「シーズン1」では描かれていない。だれかを罰するためでなく、彼自身がハンナの呪縛から解放されるための「通過儀礼」として、『13の理由』のドラマは存在している。

 

3. 感想

正直、多くのドラマは「自殺」を描くのが下手くそだと僕は思う。大抵の場合、ドラマでの自殺は「大きな理由」をいかに味付けするか、という点にばかり力を注ぐので、現実の死者から乖離した描写に感じることが多かった。加えて、その先の結論に「彼女は記憶の中で生き続けている!」などという不可解なポジティブシンキングに陥りがちで、「物語」という枠組み自体が自殺を描くのに向かないんじゃないかと、一時期は考えていたりした。

けれど、そんなことは全くない。『13の理由』という作品は、ハンナの記憶を呪いとして扱った稀有なドラマだ。彼女はクレイ達の心の中で生き続けている。それが何よりも「キツい」のだと言い切っちゃったことに、このドラマの本当の価値があると思う。

 

4. 余談

自分が書いているこれ、無意識下で『13の理由』に影響受けまくってた気がする。

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感想、考察もどき:「アベンジャーズ/インフィニティウォー」(ネタバレあり)

※「インフィニティーウォー」を含むMCU全般のネタバレと、身もふたもない駄話にご注意ください。

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