『DEATH STRANDING』のティザーを見すぎた男の末路

 

TO SEE A WORLD IN A GRAIN OF SAND.

AND A HEAVEN IN A WILD FLOWER.

HOLD INFINITY IN THE PALM OF YOUR HAND.

AND ETERNITY IN AN HOUR.

 

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 臍帯で繋がれた親子がいるとする。

 赤子の体は、「母体」から一方的に養分を吸い上げる。必要なものを吸収すると、今度は体内に溜まった老廃物を母親の体に排出し始める。

「臍の緒」などと言われているが、実際に臍で繋がっているのは赤子の方だけ。母親側の「臍」はというのは、本来彼女が別の母親と繋がっていた赤子だった、という過去の名残でしかない。あくまで生物的な「機能」としての話をすれば、親子の関係は常に不平等の中で成り立ってきた。親子が対等な存在となるためには、やはり子供が成長して新たな「親」となる必要がある。

 しかし、『DEATH STRANDING』における両者の関係性は少し違うらしい。

 これまでのティザー映像では、マッツ・ミケルセン扮する兵士や「BRIDGES」の死体処理班の男達も「臍」から赤子や髑髏兵たちと接続している。さらに、サムと呼ばれる本作の主人公は「食道」の管を通じて……直接赤ん坊と繋がっているらしい。

 もしかすると、両者を繋ぐのは従来の「親子」とは違う、対等な関係を成立させるための紐帯であるのかもしれない。大人から一方的に養分を送られ続けるだけでなく、あの赤子はなんらかの「対価」を支払っているのかもしれない。

 

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 たとえば、二本目のティザーの中で髑髏兵に指示を出す際のマッツの両眼には真っ黒な染みがあったのだが、赤ん坊の人形(あくまで人形)が片目を開いた後は消えて無くなっている(ちなみに片目を開く、という動作はデル・トロが赤ん坊と接続した瞬間にも見られた)。人形の足にはやはり黒いコードが巻きついていて、頭には無数の穴……何かと幾度となく接続した形跡が残されていた。あのシーンにおいて老廃物を排出したのは、一見すると「親」であるはずのマッツの側だった。

 

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 そして何より、最新のティザーで公開された主人公・サムの姿。「爆発」の光に包まれ、プレイアブル画面らしい海の底(魚達の体勢を見るとむしろ”反転した天井”と言えるかもしれないが)で、サムは身動きをせず横たわっている。普通に考えれば、あの状態で生き延びられるはずはない。呼吸はどうしているのか? 苦しくはないのか? ……単純過ぎて口にすることすら憚られるような疑問を、私たちは抱かずにいられない。

 

 しかし。

 

「赤ん坊とサムが対等な関係にある」と仮定した時、ここに歪な解釈を導くことができる。

 

 つまり、あの空間はサムを包み込む巨大な羊水で。

 

 赤ん坊からの栄養供給によって彼は生きながらえているのだ、という解釈。

 

 

 海底シーンにおいて、サムが抱きかかえていたはずの赤ん坊は姿を消し、代わりに彼の下腹部のあたりから長い長い「なわ」が天に向かって伸ばされている。その下腹部をよく見ると、黒い液体が煙のように排出され続けていることが分かるだろう。

 このシーンでの彼は、「老廃物を排出する胎児」の側なのだ。

 では、そもそも養分の供給源はどこか?

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 

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 やっぱこいつじゃね?

 

 

 赤ん坊からの補給によって彼は「再生」し、巨大なクレーターの穿たれた大地で再び活動を始める。今度は彼が親として、容器の中の赤ん坊に酸素を送り込みながら。

 仮に『DEATH STRANDING』がこのようにしてサムの死と再生を繰り返すのだとすれば、この作品では過去の「A Hideo Kojima Game」とは全く異なる世界が描かれるだろう。なぜなら、このゲームの中ではこれまでの小島監督作品で絶えず描かれ続けていた「世代交代」という要素が破綻してしまっている。

 メタルギアのファンであれば、これまでうんざりするほど「次の世代が~」的な台詞を聴き続けてきたはずだ。あの作品のスネーク達の関係は本当に理不尽で、呪いとしか言いようのない代物でもあったのだが、それでも親子の物語として成立していた。しかし、親子が対等な関係にある『デススト』の時空において、永遠に生きながらえるサムはそもそも次の世代にバトンを渡す必要がない。海底で胎児のように生きられるプレイヤーは、生存のためになんら努力する必要もなければ、誰かと協力する必要もない。もちろんゲームとしてなんらかの「駆け引き」が存在するのは間違いないのだろうけれど、従来のような「死なないために戦う」というルールからは完全に外れてしまっている。

 

 昨年のティザーが公開された後、小島秀夫監督はかなり意味深なツイートをしていた。

 

 

  不平等な「絆」というもの。あるいは、関係性の理不尽を正当化するための「愛」というもの。この作品は、こうした人間関係が「喪われる」という前提からスタートする。そして、その先でまだ見ぬ何かを掴もうとしているのだ。

 

一粒の砂に世界を、

一輪の鼻に天国を見いだすには、

君の手のひらで無限を握り、

この一瞬のうちに永遠をつかめ。 

 

 最初のティザーで真っ先に映し出されたのは、赤ん坊でもノーマン・リーダスでもなく陸地に打ち上げられた無数の蟹だった。あの蟹たちも、そして後に映し出される魚や鯨も、やはり腹のあたりから黒い臍帯で繋がれている。

 つまり、何かから養分を送り込まれている。

 サムにとっての「死の世界」を、反転した海の中を泳ぎ回っていた海洋生物たち。それが一転して、サムにとっての「生の世界」では地面の上で微動だにしない。両者は対の存在なのだ。陸に打ち上げられた生物たちが「生きて」いるようには到底見えないが、それらは決して「死んで」いない。この作品のタイトルが『LIVE STRANDING』でも『DEAD STRANDING』なく『DEATH STRANDING』であるのはなぜだろう……おそらく、そのヒントがここにある。

 

 思うに、この対立の特異点となるのが本作の「赤ん坊」、つまり本来の胎児だ。

 赤子は陸地に住まう生者なのか。

 それとも、水中に閉じこもる死者なのか……。

 

 

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 という妄想をしていたら一日が終わった。

 

 おしまい。 

MCUの倒し方、知ってますよ

DCEUの最新作である『ジャスティスリーグ』を観てきた……が、今日話すのはその感想ではない。

ザックには非常に申し訳ないんだけど、今日イチで衝撃を受けたのはJL本編ではなく、ある映画の予告編だったのだ。

それはIMAXで観た『ブラックパンサー』の衝撃でもなく(いや、あの予告の興奮度もすごかったんだけど)、ワカンダの王と『スターウォーズ』の間に挟まれた一本の作品。

 

名前は、『鋼の錬金術師』。

 

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Impression:BLADE RUNNER 2049

脳内彼女の外部化/可視化

・『ラブプラス』『サマーレッスン』の最終形態

・「いいのよ、K」

・私が好きだったジョイのままでいる

 

 そんなジョイが可愛い。

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【再掲】MGSVと進化と完成。

 ダーウィンの進化論。
 人間は猿から進化した、という話は完全に常識となりつつあるけれど、その過程がどうであったか気にする人は少ない。
 猿はどうして人間になったのか。長い時間の中でゆっくりと進化してきたというにしても、たかだか5、600万年でここまで発達するのはおかしい。あらゆる生物の中で、最も進化論に当てはまらないのが実は人間だ。他でもないダーウィン自身が、その問題を指摘している。

 

 猿から人へと通じる一筋の物語。
 この埋まらない空白のことを、「ミッシング・リンク」という。

 

 かつて、一本の映画がこの空白の答えを導こうとした。『2001年宇宙の旅』において、猿たちはモノリスに啓発され、とある行動から今日(未来?)の人類に進化を遂げている。この映画で発達の原動力となったのは、猿自身が抱えていた「殺人本能」だった。同じ種(RACE)の生き物を殺した末に、宙に放られた一本の骨が、やがて核兵器を搭載した人工衛星へと移り変わっていく姿。スタンリー・キューブリックが提示したのは、人間は殺し合いによって進化してきたという残酷な仮説だった。
 この「キラーエイプ仮説」の発端は、アウストラロピテクスの発掘にある。掘り出された化石の状態や、その周辺状況から、400万年前の人類が道具を用いて狩猟を行っていた可能性が指摘されたのだ。化石の破損は他の動物だけでなく、アウストラロピテクス自身の頭蓋骨からも発見された。こうした検証結果から、棒(骨)を用いた殺し合いは同じ種族間でも行われる、という説が導き出されることになる。
 人類の歴史は殺し合いによって発展してきた。キラーエイプ説は『2001年』の大前提となっていて、だからこそ、人類はさらに「進化」しなければならないという展開が終盤に待ち受けている。その超克がどのように成されたかに関しては、ぜひ映画を観て確かめてほしい。




(観るだけで分かるとは言ってない)

 

 

 さて、現在このキラーエイプ仮説は否定されている。
 アウストラロピテクスの頭蓋の破損跡は、結局肉食獣に捕食された痕跡だった。そもそも、同じ種族間の殺し合いだって、何も人間に限った話ではない。チンパンジーの同種殺しが確認された今日にあって、殺しが人と猿を分かつ引き金であると言うことはできない。歴史に開いた空白は、実を言うと今も残されたままなのである。

METAL GEAR SOLID V』でもそれは同じだ。700万年前の「人類」に因んで、初めて直立歩行ができるようになったメタルギア・サヘラントロプス。それが一体どうして「立てた」のか、本編中で明確な説明がなされることはない。語られたのは、「第三の子供」の超常的な力により動かされたこと。そして、その力を具現化するのが、人間の強い報復心であるということ。

 

「世界は報復で一つになる」

 

 髑髏顏の男(スカルフェイス)がそう語った時、メタルギアは唐突に進化した。まるで、報復心こそが進化の根源であると示すみたいに。スカルフェイスを苦しめた「言語」――ことばを発するための声帯は、元々直立二足歩行によって発達したものだ。彼の思想は、奇しくもキラーエイプ仮説と同じように、スネークを歪な未来へと誘惑する。
 1984年、彼は宙に浮く少年と出会い、報復心という「真実」に立ち会った。そして、その真実がまがい物であると証明するように、惨たらしく死んでいく。一章はそんな物語だ。
 普通の作品ならば、二章では前章に残った謎を解決していくお話になるのだろうけど、ご存知の通りそうはならなかった。小島秀夫監督は「永遠の空白」を語り、メタルギアの円環は閉ざされぬまま終わりを告げる。

 発売前のいざこざのせいで、MGSVは今や「未完成の乱造品」みたいに扱われているけれど、これを正しい評価と考えるのは難しい。監督自身が「完成度に満足している」「納期は守った」という発言を度々している一方で、いわゆる「第三章」のソースはといえば、根拠不在のリーク情報だとか、「データ解析の結果GZのビッグボスが動かせた」みたいな細々した情報とかとかとか……(海外の攻略本によると、バトルギアの操作は全体のゲームバランスを重視した結果没になったらしい。『蠅の王国』も元は追加コンテンツだったと公式Twitterが述べているので、こうした未収録要素は三章の根拠にはなり得ない)。
 現在の暴動に近いVの未完成批判は、はっきり言って事実無根だ。

 

「どうしてこれを未完成と呼ぶんだ。まともなのは僕だけか?」

 

 小島信者(a.k.a 俺)はこんな風にすっとぼけているものの、実際その気持ちはよく分かるはずだ。Vはあまりにも、いろんな謎を放置したまま終わってしまっている。この作品が「説明不足」である理由についても、個人的に納得のいく考察は殆どなかった。どのように語った所で、結局は他人の弁解だからかもしれない。一連の騒動の結果として、小島監督がTPPに言及する機会は非常に限られたものとなった。消化不良を感じているファンは非常に多いだろう。

 ここでは誰かの解釈ではなく、小島監督自身の言葉を拝借したい。彼はエッセイ本である『僕が愛したMEMEたち』の中で、『2001年』についてこう述べている。

 

「僕の中で『2001年』は単に映画というだけではない。体験そのものである。無宗教だった僕はこの映画で宇宙と出逢い、新しい神の概念と出逢い、そして物創りの神と出逢った。凄まじい衝撃と知的興奮にうち震えた。どこを観ても、何回観ても、それが人の手による創作物とは思えなかった。抽象的であり、科学的。難解であり、シンプル。どこまでも完璧であるが故、どこまでも未完成である。映画であり、映画ではない。後にも先にもこんな映画と出逢った事はなかった。映画を超越した存在だった。これは本当に人為的に作り出された物なのか? どうしてこんなものがあの時代に創れるのか? 僕はあれから、機会があるごとに繰り返し『2001年』を観に行った。まるで映画の中で類人猿がそそり立つモノリスに触れ、教えを請うたように。しかし、未だに答えは出ない。答えが出るとも限らない。それでも追求したくなる。また旅をしたくなる(p247)」

 

 意図的に作中の説明を省き、時系列の入れ替えなどでわざと難解に作られた『2001年』。この作品に強く影響を受けてきたA HIDEO KOJIMA GAMEだからこそ、シリーズの最後には「永遠の空白」が残されたのかもしれない。

 チコの設定画や音声なども確認されている昨今で、こうした考えを未完成の言い訳と捉えるのもアリといえばアリだ。しかし、その「未完」は小島監督の意思であるということ――つまり、KONAMIの騒動は無関係であることは強く主張したい。
(叩くならTPPを叩けばいい。F**KONAMIは飽きた)

 なんにせよ、メタルギアシリーズがついに「進化論」のモチーフを取り入れたこと。その上で、終盤にフリードリヒ・ニーチェが引用されているのもおそらく偶然ではないと思う。『2001年』終盤の展開は、ニーチェの超人思想を基に構築されている。劇中の音楽にも『ツァラトゥストラはかく語りき』が用いられるなど、その影響は明白だ。
TPPの進化論の方も、単に歴史をなぞるだけでなく、「さらに前に進むための」テーマとして用いられているのだろう。「真実」を語るエピソードの中で、引用にはこうあった。

 

「事実なるものは存在しない。あるのは解釈だけだ」

 

 人間である以上、言葉を使う以上、ありのままの事実など掴めるはずがない。これだけ長々と語ったところで、この文章もどうせ個人的な解釈である。本来はそうあることしかできない。
 けれど、MGSVで小島秀夫は「事実」を作った。
 この作品に隠されたモチーフは無数にある。『2001年』だけにとどまらず、『白鯨』『1984年』『闇の奥』など様々な顔を持っている。もちろん、これまでのサーガの蓄積もそうだ。あらゆる側面が真実であり、けれど一つの解釈に過ぎない。オープンワールドに作られた複雑系は、VRなんかよりよほど「リアル」なバーチャル空間として永遠に存在し続ける。某小説家の考察になぞらえて言うならば、永遠の空白とは「制御されない仮想現実」なのだ。サーガは監督の手から解放され、ついにプレイヤーの現実となった。

 このゲームを遊んだならば、ぜひ自分の頭で考えてみて欲しい。最終的には、そうすることでしか読み解けないルールだから。いくら考察したところで、答えなんか永遠に見つからないだろう。それでも、そこに向かっていく意義はある。


 かつて、メタルギアは『2001年』の空白から生まれた。Vが要求する態度というのは、いたってシンプルなものだと思う。

【再掲】省略されない日常と、クワイエットの話

朝っぱらからMGSVの面白すぎる解釈を見ました。

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見ていてなんだか懐かしい気分になったので、昨年生まれて初めて「ブログ」という形で投稿した文章をここに再掲載しておきます。

星新一賞に出した『Frameout』すらまだ書きはじめていない頃なので、個人的に生まれて初めて「世界に売った(for free)」文章になります。プライスレスです。

拙いのはもちろんのこと、これを書いていた時期の僕はやけに性格が悪いです。別に伊藤計劃の「ごくろーさん」をリスペクトしたわけではなく、当時は『MGSV』という作品に対する風当たりがまだ激しく、僕も悪い意味で心が温まっていたのです。ご了承ください。

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Where is my mind?

フィンチャーが流転した。『マインドハンター』というドラマシリーズの感想です。

フィンチャー作品全般のネタバレがてんこ盛りなので、色々気をつけてください。

 

「主人公が大きな力に振り回される話」と書けば、いつものデヴィット・フィンチャー作品かもしれない。とある人間(あるいはその人をめぐって起きる諸々の社会現象)に直面した結果、どうすることもできずに振り回される誰かについての物語。大雑把に言ってしまえば、彼の映画はだいたいいつもそんな感じ。

その「誰か」というのは大抵ひどく平凡な存在でもある。以前『ファイト・クラブ』のHonest Trailerを見た時、主人公の苦悩を「先進国の贅沢な悩み」とバッサリ切り捨ててたのがすごく笑えた。

 

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確かにその通りなんだけど、あの映画のエドワード・ノートンは圧倒的に平凡な存在である必要があった。なぜなら、フィンチャー作品の主人公というのは僕らそのもの……タイラー・ダーデンというカリスマに人生をかき乱されるのは、自分と同じくらいの立場にいる人間でなければならない。

じゃあ、僕たちは無力で無様な自分自身の様子を見たくて映画を観るのかと言えば、もちろんそれも違う。見たいのはむしろ、振り回す側にある圧倒的な環境の方。逆らいがたい何かと化した人間や現象、あるいはフェイスブックがド派手に荒れ狂う様だ。少なくとも僕は、タイラー・ダーデンアメイジング・エイミーの姿を見て、「こいつは敵わねえや」と笑うためにフィンチャーの映画を見ている。絶対的で逆らえないエネルギーを演出として活用した結果、映画として毎回強烈な印象を焼き付けてくれるわけだ。

  

従来のフィンチャー作品だと、現象の渦中にいる人間、つまり現象をコントロールする「演出家」に当たるのは一人のカリスマ的存在であることが多かった。もちろん中には『ゲーム』みたいな例外もあるし、『ゾディアック』なんかは厳密に「個人」と言えるのか難しいところがあるんだけど(その意味で今回の作品は『ゾディアック』にすごく近いと思う)、フィンチャー作品はやっぱり「強烈な個人」の印象が強い。

『マインドハンター』が普段と決定的に異なるのはこの部分だ。本作には複数の殺人鬼が登場する。シリアルキラーという言葉がなかった時代の、猟奇的な殺人鬼たち。ドラマシリーズの尺を使って、この作品は「現象」の所在を複数人に分散させた。つまり、魅力的な個体(キャラクター)であることをやめて、より抽象的な概念に近づいてきたということになる。

けれど、そうした殺人鬼ひとりひとりが本作の演出家なのかと言えば、それもまた違う。この作品において、殺人鬼たちはむしろ『被害者』として扱われている。演出家というよりは演出そのもの、『セブン』でいうならジョン・ドゥに殺された「死体」の側として、エドモンド・ケンパーたちは登場した。

彼らは望んで演出家になったのではなく、演出せざるを得ない状況に追いやられた。プロファイリングの手法を確立する上で、主人公は彼らをそんな風に捉えていく。今回の「シークエンス・キラー」は、状況に導かれて殺人を行った生贄の役割を担っている。ホールデン・フォードという男は、ケンパーたちの行為を狂気として切り離したりはしない。だから、社会に見放された生贄としてその「責任」の箍を外し、普通の人間として心理を理解しようと努めていった。

どのような背景を持って、殺人やレイプへと駆り立てられるか。衝動的なものか、計画的なものか、罪悪感はあるか、等々。彼が学んでいくのは、ようするにこの作品の「演出技法」そのものだったりする。僕たちは普通の人間だ。「やべーやつ」の心理なんて分かるはずがない。このドラマの主人公は、そうやって犯罪者から自分を切り離す行為を、切断処理をやめてしまうのだ。

「やめる」こと自体は以前のフィンチャー作品でもやっていたことでもあった。『セブン』や『ゴーン・ガール』のラストなんかは、普通の人間であるはずの主人公が、抵抗を感じつつも狂気に加担する様を描いている。けれど、具体的な誰かに手を引かれたわけでもなく自ら演出家になって行ったのは本作が初めてなんじゃないかな。

ドラマの終盤では、この作品の演出家はホールデン自身であることが明らかになっていった。気がつけば、彼は犯罪者との対話を劇として捉え、その場の登場人物を「操る」すべを身につけている。それなのに、シーズン1の最後の最後まで、当人はそれを自覚することができていなかった。

本当に恐ろしいのはその無自覚さであり、ある種の無責任さだ。ホールデンは確かにこのドラマの演出家として機能し始めていた。僕らはそこに静かな快感を覚えこそしたものの、かと言って彼にタイラーのようなカリスマ性を見出してはいない。基本的に、ホールデンは自分の「直感に従い」、状況に対処を重ねて行っただけである。明確な悪意を持っていたわけでも、自己破壊をしようとしたわけではないし、ましてや社会を脅かそうとする意図なんかどこにもない。

基本的に彼は善人だ。だから、こんな風に問うことができる。彼にいったい何の責任があるというのだろう? と。シリアルキラーに課された責任にすら無頓着なホールデンが、自分自身の責任に気づくのはより一層難しい。実際のドラマの上では、むしろ彼は積極的に責任を背負い込もうとしていた節すらある。"I made the decision on my own"とかね。

ホールデン・フォードという男は、人間の責任というものにひどく興味がないのだ。彼はすでに、人の心が環境に左右されることを知っている。おぞましい連続殺人を犯して行ったシリアルキラーたちが、捉えようによっては「普通の人間」であるということも。

 

「君がスペックに使った言葉はFBIの品位をおとしめる」

「あなたは"クズ"と……ほらね」

 

みんな同じ人間で、みんな正常だし、みんな狂うことができる。

『マインドハンター』という作品は、単純に「現象」の渦に振り回される被害者ではなく、また渦を制御する加害者でもなく、とめどない渦の「一部」として人間を扱う。根本的なところで無力ではあるが、全く力がないわけじゃない。そんな宙ぶらりんな状態で、単純な狂言回しとも言えない立場をふらつくだけ。そこから脱する手段はない。

そんな世界の中で、果たして人間に責任を課すことなどできるのか? 

これは「責任」についての物語であると僕は思う。『マインドハンター』というドラマは、「自主性」という重要な因子を欠いた、空虚な責任を追求する物語だ。

 

 

『赤い夢の迷宮』と児童書の思い出

突然ですが、僕、今21歳です。

同世代からちょっと年上くらいの人に聞きたいんですけど、「はやみねかおる」の本って読んでませんでしたか。

 

児童書に限らず、小さい頃に受け取ったコンテンツの影響はすごいなーと思う。たとえば、そもそも『虐殺器官』にハマったのなんでだろう、と考えてみた時に、小〜中学生の頃に読んでた『デモナータ』に似ていたからだと気付いた。デモナータって知らないですか。『ダレン・シャン』の作者(つまりはダレン・シャン)が書いた悪魔の話です。一応児童書ですが、一巻の序盤から主人公の家族が惨殺されます。

全体的にゴア描写が強烈だったのはもちろん、その様子を追う主人公たちの語り口が妙に落ち着き払っていたのもよく覚えている。『デモナータ』で精神をぐちょぐちょにされて育った僕は、数年後に伊藤計劃と出会い、むき出しの臓器に「ぬらぬら」というオノマトペを使うあの文体を見て懐かしい気持ちになった。こういう文脈がなかったら、ブログで劇殺器官をクソミソにいう人生など送っていなかったと思います。悪いのは全部ダレンだよ(そういや『ダレン・シャン』の映画も酷かったな)。

  

クソガキに毛が生えたような年齢なので、ノスタルジーに浸るのもまだ早い気はしている。こういう文脈は今も形成されている最中だろうし、たとえば伊藤計劃を噛まずに黒沢清にハマれたかって言われたら全く自信がない。正直、黒沢清に関して言えば今も好きなのかどうかが全然分からない。「何が面白いんだよあれ!」って言いながら毎回新作を見てる。

クリーピー』とか『散歩する侵略者』あたりはかなり楽しめたんだけど、『ダゲレオタイプの女』はマジで訳わかめでした。ちなみに、僕が好きなのは『蛇の道』とか『カリスマ』です。

 

さて。

なぜこんなふうにクダを巻いているのかと言えば、少年時代に「大人になったら読もう」と思っていた本をようやく読んだから——ずっと先延ばしにしていた儀式を正式に執り行うことができたからだ。

 

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勇嶺薫と書いて、「はやみねかおる」と読みます。「赤い夢」というのは彼がことあるごとに用いるフレーズなのですが、何を示しているのかは今もわからない。

 

児童書作家の中ではこの人が一番好きだったと記憶している。いや、正直にいうと現在進行形で好き。おかげさまで、成人した今も半年に一度ペースで「青い鳥文庫」をレジまで運んでいるし、10年後の僕もどうせ同じことをしているだろう。

10年後の僕はさ、どうせ恥ずかしいから「ブックカバーお願いします」とか言ってんだろ? お前な、好きな本くらいむき出しで買えよ。「娘に読み聞かせするんです」とか年相応の言い訳すりゃいいじゃん。えっ、娘いないの?

 

『都会のトム&ソーヤ』とかはね、さすがに今読むとアチャーってなることもなくはないんだけど、逆にすごーい! と思うこともたくさんある。VRとかARとかに関しては、この人の言う通りに進化してる面もあるんじゃないかな。子供向けであっても子供騙しではない、そういうのがいいよね。

そんなこんなで、十何冊目かの『怪盗クイーン』を読んでる時に僕は思い出した。大人向けのはやみね作品があったということ。「大人になったら読もう」と決めていたあの本に、そろそろ手を出してもいいんじゃないかと。

別に小説にはCEROレーティングなどないのだから、読みたくなったその時に読めばいいのにね。なんか違うって思ったんだろうな、小学生の感覚で。運がいいことに、僕はその時の決断を思い出すことができた。なので読んでみましたよ、『赤い夢の迷宮』を。

 

おもしろかったです。

 

 勝手にタイムカプセルにしていた本作を読んだ結果、感じたのはやっぱり変わらぬ懐かしさと好意、そして今との繋がりだった。そりゃ、大人向けだから普段の児童書とは比べ物にならないくらいダークだったりするのだけど、でも個人的にはやっぱり「はやみね作品」として楽しんでしまった。

ぶっちゃけ新鮮さはない。かつ、感想を言語化するのも難しい。作品の難解な構造がそうさせているわけではなくて、私的な思い入れが強すぎるせい。作中で「ああ、このキャラクター好きだな」と思った人は、だいたい過去作のキャラと似ていたりする。その上で、「でもそれがいい」とか言いたくなる。

だらだらと書いておきながらあれですけど、好きとか嫌いとかいう次元を通り越した「原体験」について、人はどのように語ればいいのでしょう? 基本的に、本作は客観視することができないのだ。人の書いた文章なのに、決して他人の思考回路なんかじゃなかった。

どういうことかというと、

 

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先日あげた小説。ここで並べちゃうのは流石におこがましいですけど、これも含めて、最近の自分は「夢(あるいは想像)と現実」について書くことが極端に多くなっていたんですね。実は。

自分がやりたいことを突き詰めた結果、勝手にそうなったのだと思っていた。でも、じゃあなんでこれがやりたいのか? というオリジンをたどった先に、「赤い夢」というフレーズがばっちりハマってきて、ビビる。本作に感じたのって、ようするにそういうことだったのだ。「色々あって、戻ってきました。ごめんなさい」という話。温かく迎え入れられた気がしなくもない話。

 

自分、どうして10年前からこんなに変わっていないのだろう。

 

これがすごく意外に感じた。なぜって、ここ数年僕が読んできた小説は、大抵「意識はつぎはぎだ」みたいな話ばっかりだし……記憶と体、それらが作り出す人間の心とやらも、結局は「テセウスの船」のようなものでしかない。体の細胞は6年で全部入れ替わるし、記憶に関しては捏造し放題。僕たちの思考は枠の中で行われていて、勘違いと偏見にまみれ、何か大切なものを見落とし続ける。そういうものだと思っている。

でも、今日僕が感じた実感はそれと少しずれてた。いうほど人間はばらけてなかったし、似たようなものをずるずる引きずって生き続けていた、という「ファクト」。もちろんこれは主観ですよ。どうせここで感じた一貫性も錯覚に等しいのでしょうけど、でも、それがどうしたっていうのさ。

 

久方ぶりに開き直った。

 

なんだかすごく心地よい。

 

この世界は、きっとどこかと繋がっている。そう書いたのははやみねかおるではなくて、太田光の『マボロシの鳥』か。案外、自分の本音は「好み」と真逆のところにあるのかもしれない。不思議ですね。