Impression:BLADE RUNNER 2049

脳内彼女の外部化/可視化

・『ラブプラス』『サマーレッスン』の最終形態

・「いいのよ、K」

・私が好きだったジョイのままでいる

 

 そんなジョイが可愛い。

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【再掲】MGSVと進化と完成。

 ダーウィンの進化論。
 人間は猿から進化した、という話は完全に常識となりつつあるけれど、その過程がどうであったか気にする人は少ない。
 猿はどうして人間になったのか。長い時間の中でゆっくりと進化してきたというにしても、たかだか5、600万年でここまで発達するのはおかしい。あらゆる生物の中で、最も進化論に当てはまらないのが実は人間だ。他でもないダーウィン自身が、その問題を指摘している。

 

 猿から人へと通じる一筋の物語。
 この埋まらない空白のことを、「ミッシング・リンク」という。

 

 かつて、一本の映画がこの空白の答えを導こうとした。『2001年宇宙の旅』において、猿たちはモノリスに啓発され、とある行動から今日(未来?)の人類に進化を遂げている。この映画で発達の原動力となったのは、猿自身が抱えていた「殺人本能」だった。同じ種(RACE)の生き物を殺した末に、宙に放られた一本の骨が、やがて核兵器を搭載した人工衛星へと移り変わっていく姿。スタンリー・キューブリックが提示したのは、人間は殺し合いによって進化してきたという残酷な仮説だった。
 この「キラーエイプ仮説」の発端は、アウストラロピテクスの発掘にある。掘り出された化石の状態や、その周辺状況から、400万年前の人類が道具を用いて狩猟を行っていた可能性が指摘されたのだ。化石の破損は他の動物だけでなく、アウストラロピテクス自身の頭蓋骨からも発見された。こうした検証結果から、棒(骨)を用いた殺し合いは同じ種族間でも行われる、という説が導き出されることになる。
 人類の歴史は殺し合いによって発展してきた。キラーエイプ説は『2001年』の大前提となっていて、だからこそ、人類はさらに「進化」しなければならないという展開が終盤に待ち受けている。その超克がどのように成されたかに関しては、ぜひ映画を観て確かめてほしい。




(観るだけで分かるとは言ってない)

 

 

 さて、現在このキラーエイプ仮説は否定されている。
 アウストラロピテクスの頭蓋の破損跡は、結局肉食獣に捕食された痕跡だった。そもそも、同じ種族間の殺し合いだって、何も人間に限った話ではない。チンパンジーの同種殺しが確認された今日にあって、殺しが人と猿を分かつ引き金であると言うことはできない。歴史に開いた空白は、実を言うと今も残されたままなのである。

METAL GEAR SOLID V』でもそれは同じだ。700万年前の「人類」に因んで、初めて直立歩行ができるようになったメタルギア・サヘラントロプス。それが一体どうして「立てた」のか、本編中で明確な説明がなされることはない。語られたのは、「第三の子供」の超常的な力により動かされたこと。そして、その力を具現化するのが、人間の強い報復心であるということ。

 

「世界は報復で一つになる」

 

 髑髏顏の男(スカルフェイス)がそう語った時、メタルギアは唐突に進化した。まるで、報復心こそが進化の根源であると示すみたいに。スカルフェイスを苦しめた「言語」――ことばを発するための声帯は、元々直立二足歩行によって発達したものだ。彼の思想は、奇しくもキラーエイプ仮説と同じように、スネークを歪な未来へと誘惑する。
 1984年、彼は宙に浮く少年と出会い、報復心という「真実」に立ち会った。そして、その真実がまがい物であると証明するように、惨たらしく死んでいく。一章はそんな物語だ。
 普通の作品ならば、二章では前章に残った謎を解決していくお話になるのだろうけど、ご存知の通りそうはならなかった。小島秀夫監督は「永遠の空白」を語り、メタルギアの円環は閉ざされぬまま終わりを告げる。

 発売前のいざこざのせいで、MGSVは今や「未完成の乱造品」みたいに扱われているけれど、これを正しい評価と考えるのは難しい。監督自身が「完成度に満足している」「納期は守った」という発言を度々している一方で、いわゆる「第三章」のソースはといえば、根拠不在のリーク情報だとか、「データ解析の結果GZのビッグボスが動かせた」みたいな細々した情報とかとかとか……(海外の攻略本によると、バトルギアの操作は全体のゲームバランスを重視した結果没になったらしい。『蠅の王国』も元は追加コンテンツだったと公式Twitterが述べているので、こうした未収録要素は三章の根拠にはなり得ない)。
 現在の暴動に近いVの未完成批判は、はっきり言って事実無根だ。

 

「どうしてこれを未完成と呼ぶんだ。まともなのは僕だけか?」

 

 小島信者(a.k.a 俺)はこんな風にすっとぼけているものの、実際その気持ちはよく分かるはずだ。Vはあまりにも、いろんな謎を放置したまま終わってしまっている。この作品が「説明不足」である理由についても、個人的に納得のいく考察は殆どなかった。どのように語った所で、結局は他人の弁解だからかもしれない。一連の騒動の結果として、小島監督がTPPに言及する機会は非常に限られたものとなった。消化不良を感じているファンは非常に多いだろう。

 ここでは誰かの解釈ではなく、小島監督自身の言葉を拝借したい。彼はエッセイ本である『僕が愛したMEMEたち』の中で、『2001年』についてこう述べている。

 

「僕の中で『2001年』は単に映画というだけではない。体験そのものである。無宗教だった僕はこの映画で宇宙と出逢い、新しい神の概念と出逢い、そして物創りの神と出逢った。凄まじい衝撃と知的興奮にうち震えた。どこを観ても、何回観ても、それが人の手による創作物とは思えなかった。抽象的であり、科学的。難解であり、シンプル。どこまでも完璧であるが故、どこまでも未完成である。映画であり、映画ではない。後にも先にもこんな映画と出逢った事はなかった。映画を超越した存在だった。これは本当に人為的に作り出された物なのか? どうしてこんなものがあの時代に創れるのか? 僕はあれから、機会があるごとに繰り返し『2001年』を観に行った。まるで映画の中で類人猿がそそり立つモノリスに触れ、教えを請うたように。しかし、未だに答えは出ない。答えが出るとも限らない。それでも追求したくなる。また旅をしたくなる(p247)」

 

 意図的に作中の説明を省き、時系列の入れ替えなどでわざと難解に作られた『2001年』。この作品に強く影響を受けてきたA HIDEO KOJIMA GAMEだからこそ、シリーズの最後には「永遠の空白」が残されたのかもしれない。

 チコの設定画や音声なども確認されている昨今で、こうした考えを未完成の言い訳と捉えるのもアリといえばアリだ。しかし、その「未完」は小島監督の意思であるということ――つまり、KONAMIの騒動は無関係であることは強く主張したい。
(叩くならTPPを叩けばいい。F**KONAMIは飽きた)

 なんにせよ、メタルギアシリーズがついに「進化論」のモチーフを取り入れたこと。その上で、終盤にフリードリヒ・ニーチェが引用されているのもおそらく偶然ではないと思う。『2001年』終盤の展開は、ニーチェの超人思想を基に構築されている。劇中の音楽にも『ツァラトゥストラはかく語りき』が用いられるなど、その影響は明白だ。
TPPの進化論の方も、単に歴史をなぞるだけでなく、「さらに前に進むための」テーマとして用いられているのだろう。「真実」を語るエピソードの中で、引用にはこうあった。

 

「事実なるものは存在しない。あるのは解釈だけだ」

 

 人間である以上、言葉を使う以上、ありのままの事実など掴めるはずがない。これだけ長々と語ったところで、この文章もどうせ個人的な解釈である。本来はそうあることしかできない。
 けれど、MGSVで小島秀夫は「事実」を作った。
 この作品に隠されたモチーフは無数にある。『2001年』だけにとどまらず、『白鯨』『1984年』『闇の奥』など様々な顔を持っている。もちろん、これまでのサーガの蓄積もそうだ。あらゆる側面が真実であり、けれど一つの解釈に過ぎない。オープンワールドに作られた複雑系は、VRなんかよりよほど「リアル」なバーチャル空間として永遠に存在し続ける。某小説家の考察になぞらえて言うならば、永遠の空白とは「制御されない仮想現実」なのだ。サーガは監督の手から解放され、ついにプレイヤーの現実となった。

 このゲームを遊んだならば、ぜひ自分の頭で考えてみて欲しい。最終的には、そうすることでしか読み解けないルールだから。いくら考察したところで、答えなんか永遠に見つからないだろう。それでも、そこに向かっていく意義はある。


 かつて、メタルギアは『2001年』の空白から生まれた。Vが要求する態度というのは、いたってシンプルなものだと思う。

【再掲】省略されない日常と、クワイエットの話

朝っぱらからMGSVの面白すぎる解釈を見ました。

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見ていてなんだか懐かしい気分になったので、昨年生まれて初めて「ブログ」という形で投稿した文章をここに再掲載しておきます。

星新一賞に出した『Frameout』すらまだ書きはじめていない頃なので、個人的に生まれて初めて「世界に売った(for free)」文章になります。プライスレスです。

拙いのはもちろんのこと、これを書いていた時期の僕はやけに性格が悪いです。別に伊藤計劃の「ごくろーさん」をリスペクトしたわけではなく、当時は『MGSV』という作品に対する風当たりがまだ激しく、僕も悪い意味で心が温まっていたのです。ご了承ください。

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Where is my mind?

フィンチャーが流転した。『マインドハンター』というドラマシリーズの感想です。

フィンチャー作品全般のネタバレがてんこ盛りなので、色々気をつけてください。

 

「主人公が大きな力に振り回される話」と書けば、いつものデヴィット・フィンチャー作品かもしれない。とある人間(あるいはその人をめぐって起きる諸々の社会現象)に直面した結果、どうすることもできずに振り回される誰かについての物語。大雑把に言ってしまえば、彼の映画はだいたいいつもそんな感じ。

その「誰か」というのは大抵ひどく平凡な存在でもある。以前『ファイト・クラブ』のHonest Trailerを見た時、主人公の苦悩を「先進国の贅沢な悩み」とバッサリ切り捨ててたのがすごく笑えた。

 

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確かにその通りなんだけど、あの映画のエドワード・ノートンは圧倒的に平凡な存在である必要があった。なぜなら、フィンチャー作品の主人公というのは僕らそのもの……タイラー・ダーデンというカリスマに人生をかき乱されるのは、自分と同じくらいの立場にいる人間でなければならない。

じゃあ、僕たちは無力で無様な自分自身の様子を見たくて映画を観るのかと言えば、もちろんそれも違う。見たいのはむしろ、振り回す側にある圧倒的な環境の方。逆らいがたい何かと化した人間や現象、あるいはフェイスブックがド派手に荒れ狂う様だ。少なくとも僕は、タイラー・ダーデンアメイジング・エイミーの姿を見て、「こいつは敵わねえや」と笑うためにフィンチャーの映画を見ている。絶対的で逆らえないエネルギーを演出として活用した結果、映画として毎回強烈な印象を焼き付けてくれるわけだ。

  

従来のフィンチャー作品だと、現象の渦中にいる人間、つまり現象をコントロールする「演出家」に当たるのは一人のカリスマ的存在であることが多かった。もちろん中には『ゲーム』みたいな例外もあるし、『ゾディアック』なんかは厳密に「個人」と言えるのか難しいところがあるんだけど(その意味で今回の作品は『ゾディアック』にすごく近いと思う)、フィンチャー作品はやっぱり「強烈な個人」の印象が強い。

『マインドハンター』が普段と決定的に異なるのはこの部分だ。本作には複数の殺人鬼が登場する。シリアルキラーという言葉がなかった時代の、猟奇的な殺人鬼たち。ドラマシリーズの尺を使って、この作品は「現象」の所在を複数人に分散させた。つまり、魅力的な個体(キャラクター)であることをやめて、より抽象的な概念に近づいてきたということになる。

けれど、そうした殺人鬼ひとりひとりが本作の演出家なのかと言えば、それもまた違う。この作品において、殺人鬼たちはむしろ『被害者』として扱われている。演出家というよりは演出そのもの、『セブン』でいうならジョン・ドゥに殺された「死体」の側として、エドモンド・ケンパーたちは登場した。

彼らは望んで演出家になったのではなく、演出せざるを得ない状況に追いやられた。プロファイリングの手法を確立する上で、主人公は彼らをそんな風に捉えていく。今回の「シークエンス・キラー」は、状況に導かれて殺人を行った生贄の役割を担っている。ホールデン・フォードという男は、ケンパーたちの行為を狂気として切り離したりはしない。だから、社会に見放された生贄としてその「責任」の箍を外し、普通の人間として心理を理解しようと努めていった。

どのような背景を持って、殺人やレイプへと駆り立てられるか。衝動的なものか、計画的なものか、罪悪感はあるか、等々。彼が学んでいくのは、ようするにこの作品の「演出技法」そのものだったりする。僕たちは普通の人間だ。「やべーやつ」の心理なんて分かるはずがない。このドラマの主人公は、そうやって犯罪者から自分を切り離す行為を、切断処理をやめてしまうのだ。

「やめる」こと自体は以前のフィンチャー作品でもやっていたことでもあった。『セブン』や『ゴーン・ガール』のラストなんかは、普通の人間であるはずの主人公が、抵抗を感じつつも狂気に加担する様を描いている。けれど、具体的な誰かに手を引かれたわけでもなく自ら演出家になって行ったのは本作が初めてなんじゃないかな。

ドラマの終盤では、この作品の演出家はホールデン自身であることが明らかになっていった。気がつけば、彼は犯罪者との対話を劇として捉え、その場の登場人物を「操る」すべを身につけている。それなのに、シーズン1の最後の最後まで、当人はそれを自覚することができていなかった。

本当に恐ろしいのはその無自覚さであり、ある種の無責任さだ。ホールデンは確かにこのドラマの演出家として機能し始めていた。僕らはそこに静かな快感を覚えこそしたものの、かと言って彼にタイラーのようなカリスマ性を見出してはいない。基本的に、ホールデンは自分の「直感に従い」、状況に対処を重ねて行っただけである。明確な悪意を持っていたわけでも、自己破壊をしようとしたわけではないし、ましてや社会を脅かそうとする意図なんかどこにもない。

基本的に彼は善人だ。だから、こんな風に問うことができる。彼にいったい何の責任があるというのだろう? と。シリアルキラーに課された責任にすら無頓着なホールデンが、自分自身の責任に気づくのはより一層難しい。実際のドラマの上では、むしろ彼は積極的に責任を背負い込もうとしていた節すらある。"I made the decision on my own"とかね。

ホールデン・フォードという男は、人間の責任というものにひどく興味がないのだ。彼はすでに、人の心が環境に左右されることを知っている。おぞましい連続殺人を犯して行ったシリアルキラーたちが、捉えようによっては「普通の人間」であるということも。

 

「君がスペックに使った言葉はFBIの品位をおとしめる」

「あなたは"クズ"と……ほらね」

 

みんな同じ人間で、みんな正常だし、みんな狂うことができる。

『マインドハンター』という作品は、単純に「現象」の渦に振り回される被害者ではなく、また渦を制御する加害者でもなく、とめどない渦の「一部」として人間を扱う。根本的なところで無力ではあるが、全く力がないわけじゃない。そんな宙ぶらりんな状態で、単純な狂言回しとも言えない立場をふらつくだけ。そこから脱する手段はない。

そんな世界の中で、果たして人間に責任を課すことなどできるのか? 

これは「責任」についての物語であると僕は思う。『マインドハンター』というドラマは、「自主性」という重要な因子を欠いた、空虚な責任を追求する物語だ。

 

 

『赤い夢の迷宮』と児童書の思い出

突然ですが、僕、今21歳です。

同世代からちょっと年上くらいの人に聞きたいんですけど、「はやみねかおる」の本って読んでませんでしたか。

 

児童書に限らず、小さい頃に受け取ったコンテンツの影響はすごいなーと思う。たとえば、そもそも『虐殺器官』にハマったのなんでだろう、と考えてみた時に、小〜中学生の頃に読んでた『デモナータ』に似ていたからだと気付いた。デモナータって知らないですか。『ダレン・シャン』の作者(つまりはダレン・シャン)が書いた悪魔の話です。一応児童書ですが、一巻の序盤から主人公の家族が惨殺されます。

全体的にゴア描写が強烈だったのはもちろん、その様子を追う主人公たちの語り口が妙に落ち着き払っていたのもよく覚えている。『デモナータ』で精神をぐちょぐちょにされて育った僕は、数年後に伊藤計劃と出会い、むき出しの臓器に「ぬらぬら」というオノマトペを使うあの文体を見て懐かしい気持ちになった。こういう文脈がなかったら、ブログで劇殺器官をクソミソにいう人生など送っていなかったと思います。悪いのは全部ダレンだよ(そういや『ダレン・シャン』の映画も酷かったな)。

  

クソガキに毛が生えたような年齢なので、ノスタルジーに浸るのもまだ早い気はしている。こういう文脈は今も形成されている最中だろうし、たとえば伊藤計劃を噛まずに黒沢清にハマれたかって言われたら全く自信がない。正直、黒沢清に関して言えば今も好きなのかどうかが全然分からない。「何が面白いんだよあれ!」って言いながら毎回新作を見てる。

クリーピー』とか『散歩する侵略者』あたりはかなり楽しめたんだけど、『ダゲレオタイプの女』はマジで訳わかめでした。ちなみに、僕が好きなのは『蛇の道』とか『カリスマ』です。

 

さて。

なぜこんなふうにクダを巻いているのかと言えば、少年時代に「大人になったら読もう」と思っていた本をようやく読んだから——ずっと先延ばしにしていた儀式を正式に執り行うことができたからだ。

 

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勇嶺薫と書いて、「はやみねかおる」と読みます。「赤い夢」というのは彼がことあるごとに用いるフレーズなのですが、何を示しているのかは今もわからない。

 

児童書作家の中ではこの人が一番好きだったと記憶している。いや、正直にいうと現在進行形で好き。おかげさまで、成人した今も半年に一度ペースで「青い鳥文庫」をレジまで運んでいるし、10年後の僕もどうせ同じことをしているだろう。

10年後の僕はさ、どうせ恥ずかしいから「ブックカバーお願いします」とか言ってんだろ? お前な、好きな本くらいむき出しで買えよ。「娘に読み聞かせするんです」とか年相応の言い訳すりゃいいじゃん。えっ、娘いないの?

 

『都会のトム&ソーヤ』とかはね、さすがに今読むとアチャーってなることもなくはないんだけど、逆にすごーい! と思うこともたくさんある。VRとかARとかに関しては、この人の言う通りに進化してる面もあるんじゃないかな。子供向けであっても子供騙しではない、そういうのがいいよね。

そんなこんなで、十何冊目かの『怪盗クイーン』を読んでる時に僕は思い出した。大人向けのはやみね作品があったということ。「大人になったら読もう」と決めていたあの本に、そろそろ手を出してもいいんじゃないかと。

別に小説にはCEROレーティングなどないのだから、読みたくなったその時に読めばいいのにね。なんか違うって思ったんだろうな、小学生の感覚で。運がいいことに、僕はその時の決断を思い出すことができた。なので読んでみましたよ、『赤い夢の迷宮』を。

 

おもしろかったです。

 

 勝手にタイムカプセルにしていた本作を読んだ結果、感じたのはやっぱり変わらぬ懐かしさと好意、そして今との繋がりだった。そりゃ、大人向けだから普段の児童書とは比べ物にならないくらいダークだったりするのだけど、でも個人的にはやっぱり「はやみね作品」として楽しんでしまった。

ぶっちゃけ新鮮さはない。かつ、感想を言語化するのも難しい。作品の難解な構造がそうさせているわけではなくて、私的な思い入れが強すぎるせい。作中で「ああ、このキャラクター好きだな」と思った人は、だいたい過去作のキャラと似ていたりする。その上で、「でもそれがいい」とか言いたくなる。

だらだらと書いておきながらあれですけど、好きとか嫌いとかいう次元を通り越した「原体験」について、人はどのように語ればいいのでしょう? 基本的に、本作は客観視することができないのだ。人の書いた文章なのに、決して他人の思考回路なんかじゃなかった。

どういうことかというと、

 

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先日あげた小説。ここで並べちゃうのは流石におこがましいですけど、これも含めて、最近の自分は「夢(あるいは想像)と現実」について書くことが極端に多くなっていたんですね。実は。

自分がやりたいことを突き詰めた結果、勝手にそうなったのだと思っていた。でも、じゃあなんでこれがやりたいのか? というオリジンをたどった先に、「赤い夢」というフレーズがばっちりハマってきて、ビビる。本作に感じたのって、ようするにそういうことだったのだ。「色々あって、戻ってきました。ごめんなさい」という話。温かく迎え入れられた気がしなくもない話。

 

自分、どうして10年前からこんなに変わっていないのだろう。

 

これがすごく意外に感じた。なぜって、ここ数年僕が読んできた小説は、大抵「意識はつぎはぎだ」みたいな話ばっかりだし……記憶と体、それらが作り出す人間の心とやらも、結局は「テセウスの船」のようなものでしかない。体の細胞は6年で全部入れ替わるし、記憶に関しては捏造し放題。僕たちの思考は枠の中で行われていて、勘違いと偏見にまみれ、何か大切なものを見落とし続ける。そういうものだと思っている。

でも、今日僕が感じた実感はそれと少しずれてた。いうほど人間はばらけてなかったし、似たようなものをずるずる引きずって生き続けていた、という「ファクト」。もちろんこれは主観ですよ。どうせここで感じた一貫性も錯覚に等しいのでしょうけど、でも、それがどうしたっていうのさ。

 

久方ぶりに開き直った。

 

なんだかすごく心地よい。

 

この世界は、きっとどこかと繋がっている。そう書いたのははやみねかおるではなくて、太田光の『マボロシの鳥』か。案外、自分の本音は「好み」と真逆のところにあるのかもしれない。不思議ですね。

カクヨムの学びについて

最近とぅいったーで見かけた「星新一賞(通称スターニューワン賞)なんて誰も読まない問題」が気になっちゃったんですよ。いや、僕があの賞に出した目的はいつも「小島監督に見てもらいたい」とか「太田光に読んでもらいたい」みたいに純粋なものだったから、その辺で言えば500000000%満たされるし実質関係ない。あの入選前後で色んな出会いもあった訳で、言われてるほど残念な賞ではないですよ。それに僕は文系です。

 

卑小な人生を変えるには十分すぎる経験だったので、基本的には感謝しかない。

 

ただ、おかげさまでより純粋な何かに目覚めてしまった。「小説書くのたのしーなー! いっぱい書いていっぱい読んでほしーなー!」という心境になっちゃって、次どうしようかで迷っているところ。

あれから半年くらいは現実を主戦場として、いろいろ書いていろんな人に読んでもらってた。SF以外もやった。楽しかったです。

やっぱり、仲のいい人とか偉い人すごい人に褒めてもらえるとすっごく嬉しいね。実を言うと、『Frameout』を出した前後では「結局評価されたのはフレーム問題に目をつけたという一点であって、それが僕である必要は特になかった」みたいなひねくれ方をしていたのですが、健全なコミュニケーションの機会が増えた(これはマジで増えた)おかげで健やかな心を取り戻せた。別にそれでもいいや、と思えるようになった。

 

いろいろ書く傍らで、スターニューワン賞にももちろん出した。やっぱ「小島秀夫太田光」のコンボはえぐいですよ。関係者様方は僕と同じポッドキャストを聞いて生きているんだな、と確信。

ぶっちゃけ今回は最終選考にすら残らずとも「ある可能性」があったりするので、そっちも期待大。

 

いろいろを経て、そろそろネットの海に飛び込む時期かな、なんて思い上がりをした。第二、第三段階というよりは、ようやくスタートラインに立った、というべきなのでしょう。

最初だし、どうせ誰も読まないし、ということで、一番変なものを出してみたよ。

 

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当たり前なんだけどさ、pv数ひっくー。

いや、初投稿直後の人間があれこれ語るのはイタいことなんでしょうけど、童貞卒業した直後にセックスを語るようなものかもしれませんけど、正直ここまでとは思いませんでした。「24」て。教室埋まらないじゃん。

 

作戦を立てよう。

 

たぶん、web小説を読みに来る人は「ただ漠然と小説を読みたい」みたいな動機でふらっと立ち寄ってはくれないのでしょう。このご時世ですから、そこまで小説が好きな人はあんまりいない前提。「異世界転生ものが読みたい」とか、「とぅいったーでバズったアレが読みたい」みたいな、ある種の明確な対象を持って読者は現れる。識者はこない。

その人たちとエンカウントする上では、自分があげるものの個性を一言で言いあらわせるくらいのことは当然としてできなきゃいけない。これが今回見落としていた「大・前・提」だったわけでしょう。気づくの遅いよ。

キャッチコピーで遊んじゃう時点で僕なんかはダメだったわけで、「読んでもらいたい」ならあそこは真面目にやるべきだったよね。その手の工夫をするのは苦じゃないというかむしろ好きなので、次から考えればいいんですけど。

 

 

別に趣味なんだから、好きにやればいいじゃんという考えもある。

もちろん趣味でやってるんだけど、僕はこういう考え方がイマイチ腑に落ちないんですよね。誰にも伝わらない言葉なんて、頭の中でふんわり思い浮かべときゃいいじゃん。読んでもらうなら工夫がいるし、ちゃんと伝えるにはもっと工夫がいる。

僕の好き嫌いやフェティシュになど人は興味ない。そういう人たちを振り向かせる言葉遊びが好き。だからちゃんとやる。アドバイスください。

 

 

以上、セックスを語る童貞でした。

創作「星新一賞太郎」

昔々ある所に小島秀夫ワンダーウーマンが住んでいました。  小島秀夫は本庄へパクチーしに、ワンダーウーマンは二日へパターソンしに行きました。  ワンダーウーマンが二日でパターソンをしていると、メタルギアメタルギアと、大きなネタバレが流れてきました。  ワンダーウーマンは良い土産ができたと喜び、それを拾い上げて家に持ち帰りました。  そして、小島秀夫ワンダーウーマンがネタバレを食べようとすると、なんと中から元気の良い太田上田が飛び出してきました。 「これはきっと、神様からの授かり物にちがいない」  太田上田のなかった小島秀夫ワンダーウーマンは大喜びし、ネタバレから生まれた太田上田を星新一賞太郎と名付けました。  星新一賞太郎はスクスク育ち、やがて強い上映会になりました。  そしてある日、星新一賞太郎が言いました。 「ぼく、メタフィクション島へ行って、悪いメタフィクションを退治してくるよ」  ワンダーウーマン小島監督を作ってもらった彼はメタフィクション島へ出発しました。  星新一賞太郎は旅の途中で伊藤計劃に出会いました。 「星新一賞太郎さん、どちらへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供しますよ」  伊藤計劃小島監督をもらい、星新一賞太郎のお供になりました。  そして今度はビルドに出会いました。 「星新一賞太郎さん、どこへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供しましょう」  そして今度は立川に出会いました。 「星新一賞太郎さん、どこへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供します」  こうして仲間を手に入れた星新一賞太郎はついにメタフィクション島へ到着しました。  メタフィクション島ではメタフィクションたちが近くの村から奪ってきた宝物や御馳走を並べて「本庄氏の宴」をしていました。 「よし、かかれ!」  伊藤計劃メタフィクションに噛み付き、ビルドはメタフィクションをひっかき、立川はメタフィクションを突きました。  そして星新一賞太郎もベトナム人をふり回して大暴れしました。  すると、とうとうメタフィクションの親分が泣きながら降参を宣言しました。  星新一賞太郎と伊藤計劃とビルドと立川はメタフィクションから取り上げた本庄氏を持って家に帰りました。  そして星新一賞太郎たちは本庄氏のおかげで幸せに暮らしましたとさ。  めでたしめでたし。 

 

 

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AIに小説書けるじゃねえか!!!!!!!!!!!

星新一賞は一体何をやってるんだ!!!!!!!!!