デススト妄想2.0

 前回の続き。というかほとんど同じ内容の繰り返しなんですけど。

 一つだけ上げ忘れていたものがありました。小島監督ドナルド・トランプのせいで参加できなかったという伝説の学会、「ゲーム的リアリズム2.0」。

 そこに映像で出演していた監督の映像。

 

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 以下、限りなく書き起こしに近いまとめです。

  「近い将来ほとんどのことはAIがやってくれるようになる。人間の自発的行為は『遊び』しか残らないのではないか」という小島さんの発言は非常に印象的でした。現状のゲームに関する議論といえば、「ゲームは娯楽かそれ以上か」だとか、「ゲームはアートかそうじゃないか」というようなものばかりが散見されますが、それらと比べてみても小島さんの見方はかなり先を行かれているように感じます。そこで最後の質問なのですが、「ゲームがこの先どのように進化していくのか?」「20年後や50年後を考えた時にどうなっているのか?」「ゲームは私たちの世界に対する意識や認識を変えてくれる力があるのか?」……あるいは、「私たちはゲームを通して自由になれるのか?」ということについてお話いただけますでしょうか。

 

小島 ええと、まず将来的には健康管理とか趣味嗜好とか、なんなら会話の内容や表情さえも全部AIが最適化してコミュニケーションを簡単にしてくれると思うんですよ。たとえば喉が渇いたら、その「喉が渇いた」という意志を口にする前に水が出てきて、しかもその水がどこの水かっていうのも全てリサーチ済み。そういう時代はもう間違いなく来ますよね。自分のビッグデータさえあれば、それに伴い何一つ困ることなく生きていけると思うんですけど、ただやっぱり「遊び」となるとそれじゃダメなんです。まず「自由度」があって、その中で自分が「選択」していくわけじゃないですか。「遊ばされる」っていうのは遊びじゃなくて、「自分で楽しむ」行為こそが遊びなんで。だからいろんなものを提供されて、その中で工夫していく必要があるわけですよね。で、その「工夫」こそが最終的に自分を自分たらしめる存在になるというか、かゆいところには全部手がとどく時代ですけど、でも「自分でかゆいところを探す」という自発的行為の余白が未来では意図的に残されると思うんですね。そういう遊びがなくなっていくと、もう人間として終わってしまいます。

 で、これは別に「ゲーム」という括りじゃないと思うんですね。「今からゲームを遊ぶぞ」って言って画面に向かうような従来のゲームもきっと残っているでしょうけど、恐らくそれだけではないと。たとえば、レストランでメニューを「選ぶ」ということが遊びとして残されていたりするんです。というかこれがないともう、何もすることがないんですよ。自分に足りない栄養素が全部わかっていて、どの店に行くかもあらかじめ決まっている。で、店に入ると最適なウェイターが待ち構えていて、最適な表情を浮かべながら一番いい食事を出してくれる。自分は出て来たものを食べるだけ、っていう。食べ方まで教えてもらっちゃったりして……で、それはやっぱり人間の崩壊じゃないですか。なんでやっぱりゲーム性が必要になってくるんですよ。自分でこれを「選択する」という行為が、食事するときとか友達と喋るときとかにゲーム性としてなんとなく入っている。それでようやく人が人として生きていけるというような、そういう時代になるのではないかと思ってます。

 

  ありがとうございます。プレイヤーが自分で考え、行為することによって人間の自発性が生まれてくるという、その一連のつながりに感銘を受けました。

 

小島 そもそもホモ・サピエンスは「考える人」じゃないですか。テクノロジーが生活の細部にまで行き届くと、人は自分で考えなくなってしまう。そこで「いかに考えるか」ということを考えるために必要なのが「遊び」という行為で、そのキーワードになるのが「ルーデンス」と。で、ルーデンスになるとやがては自分で創れる人にもなるので……というつながり、ですね。 

 

 自慢になるかは分からないけど、「ゲーム的リアリズム2.0」にはなぜか僕も紛れ込んでいて、監督の映像もプロジェクターで流れていたものを凝視しておりました。他の方の発表もめちゃくちゃ面白いので、時間がある人はフルで映像をどうぞ。……で、やっぱりここで言われている「未来」の要素が↓のツイートと関わってくると思うんですね。

 

 

『DEATH STRANDING』の最新トレイラーでサムが身につけている装置には「M2047 R4」と書かれていて、調べたら「Model of year 2047, revision 4」なんじゃないかと言われていました。

 

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 仮に2047年くらいの時期と仮定すると、上記の質問で語られた「将来」が指す時期(20年後や50年後)とも合致します。ここで語られていたこととデスストのテーマは無関係じゃないのでは、というところから推測していったのが実は前回の記事だったわけです。

 

  つまり、本作で「徹底した管理により、自発性が失われた状態」を表現しているのがあの「胎児」なんじゃないかということ。胎児というのは別に人間の赤ん坊に限った話ではなくて、おそらく初期のトレイラーから登場し続けている「蟹」や「鯨」も同じ状態であると僕は考えています。

 

 

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 陸に打ち上げられた「胎児」としての海洋生物。臍帯から養分を送り込まれるために自ら呼吸する必要もなく、生きて行く上で自発的な活動や選択をする必要もない。

 

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 一転して海の世界では、今度は臍帯に繋がれたサムが縮こまっています。陸の蟹たちと同じように、彼は決して「死んでいない」が同時に生きてもいない。なぜなら彼は、「人間として終わっている」から。

 

 このゲームのタイトルが「Dead Stranding」でも「Live Stranding」でもない『Death Stranding』になったのって、つまりそういうことなんじゃないかなー、と。そういう妄想をしたのが前回の記事でした。

 

 

 さて、同じことだけ言ってても芸がない。

 ここで少しメタな視点を導入すると、我々プレイヤーは「遊び」として自発的にこのゲームと関わっていくことになります。ようするに、「サムを動かす」という行為自体が、この世界に失われた「自発性」や「絆」を回復する営みに直結するという……相変わらずものすごい構造のゲームになりそう。

 

 

 

 というかサム、「メタ男」じゃん。

 

 

 

 

紳士マン:ゴルサーの姫

↑邦題これでよくね?

 

 

 

他の映画じゃ見れないアクションや絵面がやっぱりあって、たとえば檻に入れられた人間がクレーンで積まれていくシーンなんかは「ああすごいなあ。バカだなあ」と感動できたし、カメラがグルングルン回るアクションシーンとか奇妙なカラフルさは相変わらず爽快だった。キングスマンだからこそできたことが本当にたくさん詰まっているので、とりあえず「観てほしい」と言いたい映画ではあるんです。続編もあってほしい。

 

ただ、展開よ。

前作がギリギリセーフな倫理のツボを突いてくれたのだとしたら、今回は普通にアウトである。

構造自体は面白いと思う。「マナーが人を作る」をモットーにしているキングスマンが、今作では「マナーを破った人間」を守らなきゃいけなくなるというジレンマ。エグジーが最後の最後で疑問を口にしてしまう点も含めて、自己矛盾に苦しむヒーローフェチにはたまらない設定が本作にはあったはずだ。

マナーを守らない人間はボコしてよい。そんな乱暴な理屈を素直に押し通した結果として、前作は「虐殺」と「紳士」という矛盾した二つの要素を両立させることができた。しかし今回はその辺が拗れる。

シリーズ物特有の「転覆」がエグジーに襲いかかる。全てのルールを守ることが正義なのか、あるいは、マナーだけ守ってればそれでいいのか。頑張ってもマナーを守れない人間が世の中にはいるとして、その人は見捨てられて当然と言えるのだろうか……さあどうする紳士達。

彼がこの問題をしっかりと認識し、最後なんらかの答えを出せれば、『ゴールデン・サークル』は間違いなく傑作となっただろう。けれど、本作はそこまでたどり着けていない。

というか、この作風でそれを描くのはほとんど不可能なんだと思う。

なぜって、キングスマンならではのあの「空間」はそもそも、命をどこまでも軽んじることで成立しているのだから。麻薬とかマナーとかそれらひっくるめたジレンマなんか、最初から「どうでもいい」という前提でこの世界は回っている。冒頭ではポピーの「Say goodbye to the Kingsman」の一言と共に、前作でそこそこ人気キャラであったはずの『JB』や『ロキシー』があっさり爆殺されてしまっていた。

 

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僕個人としてはこの時点で心を置いてきぼりにされてる。ぶっちゃけ、本作の印象は「好きなキャラが全員死んでどうでもいいやつだけ生き残った映画」である。そもそもヘッドショットや威風堂々を食らっても生き延びることが可能な世界観なんだから、誰が死んで誰が生きるとか本当にどうでもいい。死んだJBを別のわんこですげ替えたり、ハリーが別のわんこで記憶を取り戻したり、もう何がしたいんだよお前って感じ。

 

本来この「命の軽さ」はキングスマンの魅力であるはずだった。

 

マシュー・ヴォーンにこの辺を「うまくやってくれ」ということ自体が無理な話というか、そんな倫理的な駆け引きができる人にはそもそも前作だって作れないんだろうけど……でもそれじゃあやっぱり今回の敵の「問題提起」は無茶振りに等しい。

他のヒーロー物に例えるなら、バットマンが不真面目で適当な人間だったらジョーカーは悪役として成立しないだろという話。ポピーは別にキャラクターとして魅力がないわけではなくて、キングスマンとの対立が難しい人間だったというだけなのである。すごくもったいない。

 

端的に言って、本作は見終わった観客の背筋を伸ばすことに失敗している。「転覆」ゆえの後味があるわけでもないし、そもそもそんなものキングスマンには求めてない。小難しい他のヒーロー映画みたいな「問題」や「主張」を笑い飛ばし、まっすぐな「MMM」を推し進めることに成功したのが前作の傑作たる所以である。だから、本作が提示した問題だってもっとシンプルでいいはずなんだ。

 

いったいなぜ、続編はこんな風になっちゃうんだろう。

 

 

 

謎。

 

 

 

『DEATH STRANDING』のティザーを見すぎた男の末路

 

TO SEE A WORLD IN A GRAIN OF SAND.

AND A HEAVEN IN A WILD FLOWER.

HOLD INFINITY IN THE PALM OF YOUR HAND.

AND ETERNITY IN AN HOUR.

 

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 臍帯で繋がれた親子がいるとする。

 赤子の体は、「母体」から一方的に養分を吸い上げる。必要なものを吸収すると、今度は体内に溜まった老廃物を母親の体に排出し始める。

「臍の緒」などと言われているが、実際に臍で繋がっているのは赤子の方だけ。母親側の「臍」はというのは、本来彼女が別の母親と繋がっていた赤子だった、という過去の名残でしかない。あくまで生物的な「機能」としての話をすれば、親子の関係は常に不平等の中で成り立ってきた。親子が対等な存在となるためには、やはり子供が成長して新たな「親」となる必要がある。

 しかし、『DEATH STRANDING』における両者の関係性は少し違うらしい。

 これまでのティザー映像では、マッツ・ミケルセン扮する兵士や「BRIDGES」の死体処理班の男達も「臍」から赤子や髑髏兵たちと接続している。さらに、サムと呼ばれる本作の主人公は「食道」の管を通じて……直接赤ん坊と繋がっているらしい。

 もしかすると、両者を繋ぐのは従来の「親子」とは違う、対等な関係を成立させるための紐帯であるのかもしれない。大人から一方的に養分を送られ続けるだけでなく、あの赤子はなんらかの「対価」を支払っているのかもしれない。

 

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 たとえば、二本目のティザーの中で髑髏兵に指示を出す際のマッツの両眼には真っ黒な染みがあったのだが、赤ん坊の人形(あくまで人形)が片目を開いた後は消えて無くなっている(ちなみに片目を開く、という動作はデル・トロが赤ん坊と接続した瞬間にも見られた)。人形の足にはやはり黒いコードが巻きついていて、頭には無数の穴……何かと幾度となく接続した形跡が残されていた。あのシーンにおいて老廃物を排出したのは、一見すると「親」であるはずのマッツの側だった。

 

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 そして何より、最新のティザーで公開された主人公・サムの姿。「爆発」の光に包まれ、プレイアブル画面らしい海の底(魚達の体勢を見るとむしろ”反転した天井”と言えるかもしれないが)で、サムは身動きをせず横たわっている。普通に考えれば、あの状態で生き延びられるはずはない。呼吸はどうしているのか? 苦しくはないのか? ……単純過ぎて口にすることすら憚られるような疑問を、私たちは抱かずにいられない。

 

 しかし。

 

「赤ん坊とサムが対等な関係にある」と仮定した時、ここに歪な解釈を導くことができる。

 

 つまり、あの空間はサムを包み込む巨大な羊水で。

 

 赤ん坊からの栄養供給によって彼は生きながらえているのだ、という解釈。

 

 

 海底シーンにおいて、サムが抱きかかえていたはずの赤ん坊は姿を消し、代わりに彼の下腹部のあたりから長い長い「なわ」が天に向かって伸ばされている。その下腹部をよく見ると、黒い液体が煙のように排出され続けていることが分かるだろう。

 このシーンでの彼は、「老廃物を排出する胎児」の側なのだ。

 では、そもそも養分の供給源はどこか?

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 

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 やっぱこいつじゃね?

 

 

 赤ん坊からの補給によって彼は「再生」し、巨大なクレーターの穿たれた大地で再び活動を始める。今度は彼が親として、容器の中の赤ん坊に酸素を送り込みながら。

 仮に『DEATH STRANDING』がこのようにしてサムの死と再生を繰り返すのだとすれば、この作品では過去の「A Hideo Kojima Game」とは全く異なる世界が描かれるだろう。なぜなら、このゲームの中ではこれまでの小島監督作品で絶えず描かれ続けていた「世代交代」という要素が破綻してしまっている。

 メタルギアのファンであれば、これまでうんざりするほど「次の世代が~」的な台詞を聴き続けてきたはずだ。あの作品のスネーク達の関係は本当に理不尽で、呪いとしか言いようのない代物でもあったのだが、それでも親子の物語として成立していた。しかし、親子が対等な関係にある『デススト』の時空において、永遠に生きながらえるサムはそもそも次の世代にバトンを渡す必要がない。海底で胎児のように生きられるプレイヤーは、生存のためになんら努力する必要もなければ、誰かと協力する必要もない。もちろんゲームとしてなんらかの「駆け引き」が存在するのは間違いないのだろうけれど、従来のような「死なないために戦う」というルールからは完全に外れてしまっている。

 

 昨年のティザーが公開された後、小島秀夫監督はかなり意味深なツイートをしていた。

 

 

  不平等な「絆」というもの。あるいは、関係性の理不尽を正当化するための「愛」というもの。この作品は、こうした人間関係が「喪われる」という前提からスタートする。そして、その先でまだ見ぬ何かを掴もうとしているのだ。

 

一粒の砂に世界を、

一輪の鼻に天国を見いだすには、

君の手のひらで無限を握り、

この一瞬のうちに永遠をつかめ。 

 

 最初のティザーで真っ先に映し出されたのは、赤ん坊でもノーマン・リーダスでもなく陸地に打ち上げられた無数の蟹だった。あの蟹たちも、そして後に映し出される魚や鯨も、やはり腹のあたりから黒い臍帯で繋がれている。

 つまり、何かから養分を送り込まれている。

 サムにとっての「死の世界」を、反転した海の中を泳ぎ回っていた海洋生物たち。それが一転して、サムにとっての「生の世界」では地面の上で微動だにしない。両者は対の存在なのだ。陸に打ち上げられた生物たちが「生きて」いるようには到底見えないが、それらは決して「死んで」いない。この作品のタイトルが『LIVE STRANDING』でも『DEAD STRANDING』なく『DEATH STRANDING』であるのはなぜだろう……おそらく、そのヒントがここにある。

 

 思うに、この対立の特異点となるのが本作の「赤ん坊」、つまり本来の胎児だ。

 赤子は陸地に住まう生者なのか。

 それとも、水中に閉じこもる死者なのか……。

 

 

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 という妄想をしていたら一日が終わった。

 

 おしまい。 

MCUの倒し方、知ってますよ

DCEUの最新作である『ジャスティスリーグ』を観てきた……が、今日話すのはその感想ではない。

ザックには非常に申し訳ないんだけど、今日イチで衝撃を受けたのはJL本編ではなく、ある映画の予告編だったのだ。

それはIMAXで観た『ブラックパンサー』の衝撃でもなく(いや、あの予告の興奮度もすごかったんだけど)、ワカンダの王と『スターウォーズ』の間に挟まれた一本の作品。

 

名前は、『鋼の錬金術師』。

 

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Impression:BLADE RUNNER 2049

脳内彼女の外部化/可視化

・『ラブプラス』『サマーレッスン』の最終形態

・「いいのよ、K」

・私が好きだったジョイのままでいる

 

 そんなジョイが可愛い。

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【再掲】MGSVと進化と完成。

 ダーウィンの進化論。
 人間は猿から進化した、という話は完全に常識となりつつあるけれど、その過程がどうであったか気にする人は少ない。
 猿はどうして人間になったのか。長い時間の中でゆっくりと進化してきたというにしても、たかだか5、600万年でここまで発達するのはおかしい。あらゆる生物の中で、最も進化論に当てはまらないのが実は人間だ。他でもないダーウィン自身が、その問題を指摘している。

 

 猿から人へと通じる一筋の物語。
 この埋まらない空白のことを、「ミッシング・リンク」という。

 

 かつて、一本の映画がこの空白の答えを導こうとした。『2001年宇宙の旅』において、猿たちはモノリスに啓発され、とある行動から今日(未来?)の人類に進化を遂げている。この映画で発達の原動力となったのは、猿自身が抱えていた「殺人本能」だった。同じ種(RACE)の生き物を殺した末に、宙に放られた一本の骨が、やがて核兵器を搭載した人工衛星へと移り変わっていく姿。スタンリー・キューブリックが提示したのは、人間は殺し合いによって進化してきたという残酷な仮説だった。
 この「キラーエイプ仮説」の発端は、アウストラロピテクスの発掘にある。掘り出された化石の状態や、その周辺状況から、400万年前の人類が道具を用いて狩猟を行っていた可能性が指摘されたのだ。化石の破損は他の動物だけでなく、アウストラロピテクス自身の頭蓋骨からも発見された。こうした検証結果から、棒(骨)を用いた殺し合いは同じ種族間でも行われる、という説が導き出されることになる。
 人類の歴史は殺し合いによって発展してきた。キラーエイプ説は『2001年』の大前提となっていて、だからこそ、人類はさらに「進化」しなければならないという展開が終盤に待ち受けている。その超克がどのように成されたかに関しては、ぜひ映画を観て確かめてほしい。




(観るだけで分かるとは言ってない)

 

 

 さて、現在このキラーエイプ仮説は否定されている。
 アウストラロピテクスの頭蓋の破損跡は、結局肉食獣に捕食された痕跡だった。そもそも、同じ種族間の殺し合いだって、何も人間に限った話ではない。チンパンジーの同種殺しが確認された今日にあって、殺しが人と猿を分かつ引き金であると言うことはできない。歴史に開いた空白は、実を言うと今も残されたままなのである。

METAL GEAR SOLID V』でもそれは同じだ。700万年前の「人類」に因んで、初めて直立歩行ができるようになったメタルギア・サヘラントロプス。それが一体どうして「立てた」のか、本編中で明確な説明がなされることはない。語られたのは、「第三の子供」の超常的な力により動かされたこと。そして、その力を具現化するのが、人間の強い報復心であるということ。

 

「世界は報復で一つになる」

 

 髑髏顏の男(スカルフェイス)がそう語った時、メタルギアは唐突に進化した。まるで、報復心こそが進化の根源であると示すみたいに。スカルフェイスを苦しめた「言語」――ことばを発するための声帯は、元々直立二足歩行によって発達したものだ。彼の思想は、奇しくもキラーエイプ仮説と同じように、スネークを歪な未来へと誘惑する。
 1984年、彼は宙に浮く少年と出会い、報復心という「真実」に立ち会った。そして、その真実がまがい物であると証明するように、惨たらしく死んでいく。一章はそんな物語だ。
 普通の作品ならば、二章では前章に残った謎を解決していくお話になるのだろうけど、ご存知の通りそうはならなかった。小島秀夫監督は「永遠の空白」を語り、メタルギアの円環は閉ざされぬまま終わりを告げる。

 発売前のいざこざのせいで、MGSVは今や「未完成の乱造品」みたいに扱われているけれど、これを正しい評価と考えるのは難しい。監督自身が「完成度に満足している」「納期は守った」という発言を度々している一方で、いわゆる「第三章」のソースはといえば、根拠不在のリーク情報だとか、「データ解析の結果GZのビッグボスが動かせた」みたいな細々した情報とかとかとか……(海外の攻略本によると、バトルギアの操作は全体のゲームバランスを重視した結果没になったらしい。『蠅の王国』も元は追加コンテンツだったと公式Twitterが述べているので、こうした未収録要素は三章の根拠にはなり得ない)。
 現在の暴動に近いVの未完成批判は、はっきり言って事実無根だ。

 

「どうしてこれを未完成と呼ぶんだ。まともなのは僕だけか?」

 

 小島信者(a.k.a 俺)はこんな風にすっとぼけているものの、実際その気持ちはよく分かるはずだ。Vはあまりにも、いろんな謎を放置したまま終わってしまっている。この作品が「説明不足」である理由についても、個人的に納得のいく考察は殆どなかった。どのように語った所で、結局は他人の弁解だからかもしれない。一連の騒動の結果として、小島監督がTPPに言及する機会は非常に限られたものとなった。消化不良を感じているファンは非常に多いだろう。

 ここでは誰かの解釈ではなく、小島監督自身の言葉を拝借したい。彼はエッセイ本である『僕が愛したMEMEたち』の中で、『2001年』についてこう述べている。

 

「僕の中で『2001年』は単に映画というだけではない。体験そのものである。無宗教だった僕はこの映画で宇宙と出逢い、新しい神の概念と出逢い、そして物創りの神と出逢った。凄まじい衝撃と知的興奮にうち震えた。どこを観ても、何回観ても、それが人の手による創作物とは思えなかった。抽象的であり、科学的。難解であり、シンプル。どこまでも完璧であるが故、どこまでも未完成である。映画であり、映画ではない。後にも先にもこんな映画と出逢った事はなかった。映画を超越した存在だった。これは本当に人為的に作り出された物なのか? どうしてこんなものがあの時代に創れるのか? 僕はあれから、機会があるごとに繰り返し『2001年』を観に行った。まるで映画の中で類人猿がそそり立つモノリスに触れ、教えを請うたように。しかし、未だに答えは出ない。答えが出るとも限らない。それでも追求したくなる。また旅をしたくなる(p247)」

 

 意図的に作中の説明を省き、時系列の入れ替えなどでわざと難解に作られた『2001年』。この作品に強く影響を受けてきたA HIDEO KOJIMA GAMEだからこそ、シリーズの最後には「永遠の空白」が残されたのかもしれない。

 チコの設定画や音声なども確認されている昨今で、こうした考えを未完成の言い訳と捉えるのもアリといえばアリだ。しかし、その「未完」は小島監督の意思であるということ――つまり、KONAMIの騒動は無関係であることは強く主張したい。
(叩くならTPPを叩けばいい。F**KONAMIは飽きた)

 なんにせよ、メタルギアシリーズがついに「進化論」のモチーフを取り入れたこと。その上で、終盤にフリードリヒ・ニーチェが引用されているのもおそらく偶然ではないと思う。『2001年』終盤の展開は、ニーチェの超人思想を基に構築されている。劇中の音楽にも『ツァラトゥストラはかく語りき』が用いられるなど、その影響は明白だ。
TPPの進化論の方も、単に歴史をなぞるだけでなく、「さらに前に進むための」テーマとして用いられているのだろう。「真実」を語るエピソードの中で、引用にはこうあった。

 

「事実なるものは存在しない。あるのは解釈だけだ」

 

 人間である以上、言葉を使う以上、ありのままの事実など掴めるはずがない。これだけ長々と語ったところで、この文章もどうせ個人的な解釈である。本来はそうあることしかできない。
 けれど、MGSVで小島秀夫は「事実」を作った。
 この作品に隠されたモチーフは無数にある。『2001年』だけにとどまらず、『白鯨』『1984年』『闇の奥』など様々な顔を持っている。もちろん、これまでのサーガの蓄積もそうだ。あらゆる側面が真実であり、けれど一つの解釈に過ぎない。オープンワールドに作られた複雑系は、VRなんかよりよほど「リアル」なバーチャル空間として永遠に存在し続ける。某小説家の考察になぞらえて言うならば、永遠の空白とは「制御されない仮想現実」なのだ。サーガは監督の手から解放され、ついにプレイヤーの現実となった。

 このゲームを遊んだならば、ぜひ自分の頭で考えてみて欲しい。最終的には、そうすることでしか読み解けないルールだから。いくら考察したところで、答えなんか永遠に見つからないだろう。それでも、そこに向かっていく意義はある。


 かつて、メタルギアは『2001年』の空白から生まれた。Vが要求する態度というのは、いたってシンプルなものだと思う。

【再掲】省略されない日常と、クワイエットの話

朝っぱらからMGSVの面白すぎる解釈を見ました。

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見ていてなんだか懐かしい気分になったので、昨年生まれて初めて「ブログ」という形で投稿した文章をここに再掲載しておきます。

星新一賞に出した『Frameout』すらまだ書きはじめていない頃なので、個人的に生まれて初めて「世界に売った(for free)」文章になります。プライスレスです。

拙いのはもちろんのこと、これを書いていた時期の僕はやけに性格が悪いです。別に伊藤計劃の「ごくろーさん」をリスペクトしたわけではなく、当時は『MGSV』という作品に対する風当たりがまだ激しく、僕も悪い意味で心が温まっていたのです。ご了承ください。

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