星新一賞のこと

オタコン、すごいことになった。数ヶ月前に応募した星新一賞ショートショートが、学生部門で入選している。いったい何が起きているんだ。今日は「ラ・ラ・ランド」の公開日だぞ。1日に起こりうるイベントのキャパシティを、明らかに上回っているじゃないか。
世間はプレミアムフライデーの嘘に発狂してるというのに、俺は……。

 

うれしい。うれしすぎる。
生まれて初めて、最後まで書き上げた小説でした。入賞後に言うのは失礼かもしれませんが、正直「うまく書けた」という実感は皆無だったのです。原型を見失うまで文章を弄り続ける、謎の病に精神を蝕まれ……締め切りの寸前まで苦しみもがいておりました。
「文章をいじり倒したくなった時、大抵は構成の段階で失敗している」という知見を得た後、もう諦めて次に行こうと思った時のことです。まさかの3次審査通過を知り、オタコン、まずいことにn(略

手のひらを返すように「BIGBOSS IS WATCHING ME!!」 と周囲にわめき散らした上で、とうとう本日、日経のサイトに名前が載りました。作品名は出ていませんでしたが、当ブログのURLでもある「Frameout」です。受賞するとは思わなかった、という割にブログ名から何から気が早いですね。

まだあまり実感がないのですが、既にTwitterではたくさんの祝福の言葉をいただいており、ありがたい限りです。小説は来月の中旬に無料で掲載されるそうです。よろしくお願いします。

 

 

12日の受賞式に今から緊張している。

21グラムの減量

 劇場版「虐殺器官」のはなし。

 主人公クラヴィス・シェパードの人格は大きく歪められていた。そりゃ、ハーモニーみたいな露骨すぎるプレイは無かったけれど、原作に比べてかなりぞんざいな扱いを受けていると思う。改変、というにはあまりにも原作まんまのセリフ朗読が多く、かといって「死者の国」や「母親」などの動機は最初からなかったことにされる。どちらかというと「空洞化」の方が正しいかもしれない。原作通りの台詞を吐かされているものの、彼は自分のことばに関心を持っていないみたいだった。
 
 つまり、「お前はことばにフェティシュがないようね」
 
 どうしてこうなったのかと考えていると、映画3作品に共通する闇が見えてくる。ご存知の通り、劇場版三部作は伊藤計劃という架空の神様を祭り上げることで成立していた。各種コラボやグッズ展開は本当にお祭り騒ぎになっているので、原作ファンからすればこれは他校の文化祭を見に行くようなもの  というより、母校の文化祭を訪れると「お前何しに来たの?」と笑われるような寂しさに満ちている。もう少しはっきり言うと、これは目に見えた地雷だ。
 全てを承知で地面を踏み込み、案の定右足を吹き飛ばされながら僕が思ったのは、伊藤計劃という作家はこの世で最も神格化に向かない小説家なのではないかということだった。原作のクラヴィスはとても繊細で影響されやすいキャラクターだ。誤解を恐れずにいうならば、これは原作者の影響であったのだと思う。なんせ、虐殺器官という作品は、彼が好きな映画やゲームの一覧表としても機能するくらいだから。原作では時折、別作品のキャラクターやモチーフがそのまま利用されることがある。

プライベート・ライアン」が流れるリビングでドミノ・ピザをかじったり、リボルバー・オセロットがそっくりそのまま登場したり。こうした人や作品に、単なるパロディを通り越した意味を与えてしまうのが伊藤計劃作品の特徴だ。虐殺器官は決して「無」から生み出されたわけではない。ストーリーが「CURE」などの影響を受けているのは有名な話だし、この作品のオリジナリティはようするに、「なぜこの展開が用いられたのかを語る」ことで付与されるものである。虐殺器官とは伊藤計劃を取り囲む状況の物語  つまり、クラヴィス・シェパードの人格を構築するあらゆる事象についての作品だ。

 
 それなのに、劇場版は伊藤計劃を天才として、無から有を生み出す神様として手前勝手に持ち上げてしまった。映画のクラヴィス・シェパード=プロジェクト・イトーは完璧なのだ。彼は周囲の影響なんかものともせず(つまりあらゆるミームを継承せず)、いつも自由意志のみで戦っている。時折「痛いか?」などのひ弱なセリフを呟いてみたりもするが、からっぽになった彼の言動は、いつか「カフカチェコ語で読みたい」と告げた時のような演技にしか見えない。
 映画における彼は、ある意味で原作以上の嘘つきと化している。こうした変化は作品全体に様々な影響を及ぼしていて、たとえば、映画は原作未読者にとって難解な話になってしまった。台詞が難しいからではなく、本来語るべき背景を徹底して排除しているからだ(その証拠に、整合性がちゃんとしてる原作の方は、中学生にだって読破できるはずだ)。
 母親の死を描かないだけでなく、劇場版はクラヴィスの発言の裏にある動機を完全に無化している。たとえば、本作の終盤でクラヴィスはジョン・ポールにこう訴えていた。人間は、選ぶことができる。ぼくは罪を抱えている。選択に対する責任を負うことができる……と。
 原作の場合、この発言の起点はルツィアにあった。クラブの中での「責任」の話。良心のディティールは社会的な産物であり、ミームとして次の世代へと語り継がれる。けれど、ミームや遺伝子は人々を規定するものではない。遺伝や環境に関係なく、人は選択することができるのだから、それらは免罪符になどなり得ない。

ミームのほうが、わたしたちに寄生しているんだもの。わたしたちが考え、決断する、そのこと自体にミームは乗って、人から人へと伝達していく。

 ルツィアのことばにクラヴィスは救われ、ジョンに対する発言も、まさにこの会話の遺伝子を選択した「結果」であったはずなんだけど……映画ではそうした背景が丸ごとカットされている。あれだけ原文ママの朗読会を繰り返してきたというのに、二人の重要な会話だけはなぜか消し去られているのである。

 

(もちろん原作ママもでてこない)

 

 クラヴィスの思想は、突然空から降りてくる。なぜなら彼=伊藤計劃は神だからだ。
 こうしたスタイルの徹底が、劇場版三部作を根本的に歪めてしまった。ハーモニーの御冷ミァハのデザインは、日本人と言われて想像する容貌のマージンからきっちり逸脱しているようにも見えるし、それによって主人公の憧れを性欲ごと刺激した。あの映画がポルノムービーと化したのは、「テーマは百合です」という原作者の言葉に対し、気持ち悪いくらいのマジレスをした結果である。割れ物に触れるような映像化は、結局作品の首を真綿で締めつけただけだった。最終的に、ミァハは痴情のもつれで射殺されてしまい、原作ファンは「冗談じゃない」という思いを胸に劇場を出ることになる。

 

 伊藤計劃作品というのは、根っこの部分で神格化に向いていない。だからこそ、本来であれば劇場版三部作はこう訴えるべきだったのだ。「Project Itohは神ではない」と。

なんだ、宗教の最低の利用法じゃないか。ぼくはぜんぜん無神論者なんかじゃない。そのことに、いま気付いた。

虐殺器官」という作品は、無神論者の主人公自身が神を希求する存在としても描かれている。原作のクラヴィスは、ジョン・ポールに対し何度か「正気」という言葉を用いていた。現実の伊藤計劃もまた、自らが敬愛したある人物に対しこの言葉を使っている。小島秀夫監督だ。
 別に「ジョン=HIDEO説」を打ち立てたいわけじゃない。ここで言いたいのは、伊藤計劃はジョン・ポールを明確な「他者」として描いているということ。そして、虐殺器官という作品はやはり、主人公がジョンを「追う」意味の物語だということだ。

世界の混沌を冷静に指差し、先回りで行動できるどこかの誰か。
絶望を動機とせず、あくまで限定された人々の幸福を願って虐殺を重ねた「正気の人」  ジョン・ポールとはそういう男だった。

 劇場版はジョンの方に伊藤計劃を投影している節があるがそれもおかしい。むしろ、彼のことばに対するアンサーとして原作のエピローグは強烈なものになったのだ。受け止めるべき主体性を欠いた映画のクラヴィスに、はたしてあのラストは再現できただろうか? ……できるはずがない。
 この映画は失敗した。誰がなんと言おうと間違っていた。
 ただただ無意味な叙事として、「虐殺器官」はあっけなく終わってしまう。本作は伊藤計劃を祭り上げ、それ故に彼をどこにでもいる天才として消費してしまったのだ。様々な映画やゲームに対して、あれだけ優れた解釈を導いてきた原作者の映像化なのに  伊藤計劃を物語ることばの方は、どうしてここまでずさんなのだろう。

 

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 正気じゃないな、と思いながらぼくは作草部でラーメンをすする。

 けれど、パク・チャヌク監督と小島監督のツーショットを見ていると、すこしだけ気持ちがやわらいだ。

Outside In:The Phantom Pain

http://www.disney.co.jp/movie/head/about.html

はじめまして。私たち、あなたの中の<きもち>です。 

 

ママとパパに見守られて、ミネソタで元気いっぱいに育った11才の少女ライリー。
そして、いつも彼女の頭の中にいる“5つの感情たち”―ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミ。

ところが、遠い街への引っ越しで、不安とドキドキがいっぱいになったライリーの心の中ので、ヨロコビとカナシミは迷子になってしまいます。

ライリーは、このまま永遠にヨロコビやカナシミの気持ちを見失ってしまうのでしょうか?

観終わった時、あなたはきっと、自分をもっと好きになっている―。
驚きに満ちた、誰も見たことのない“頭の中の世界”で繰り広げられる、
ディズニー/ピクサーの感動の冒険ファンタジー! 

 

「はじめまして。私たち、あなたの中の<ほうふくしん>です。

パパとママに見放されて、マサ村落で元気いっぱいに育った10代の少年イーライ。
そして、いつも彼の頭の中にいる”5つの感情たち”  ジョイ、フューリー、ペイン、フィアー、ソロー。

ところが、遠いセーシェルへの引越しで、不安とドキドキがいっぱいになったイーライの心の中で、フューリーとペインは報復に呑まれてしまいます。

イーライは、このまま永遠の空白の中に取り残されてしまうのでしょうか?

観終わったとき、お前はきっと、もう一人の俺になっている  
驚きに満ちた、誰も見たことのない”オープンワールド”で繰り広げられる、
コナミ/コジプロの感動冒険タクティカルエスピオナージファンタジーオペレーション!」

 

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