Where is my mind?

フィンチャーが流転した。『マインドハンター』というドラマシリーズの感想です。

フィンチャー作品全般のネタバレがてんこ盛りなので、色々気をつけてください。

 

「主人公が大きな力に振り回される話」と書けば、いつものデヴィット・フィンチャー作品かもしれない。とある人間(あるいはその人をめぐって起きる諸々の社会現象)に直面した結果、どうすることもできずに振り回される誰かについての物語。大雑把に言ってしまえば、彼の映画はだいたいいつもそんな感じ。

その「誰か」というのは大抵ひどく平凡な存在でもある。以前『ファイト・クラブ』のHonest Trailerを見た時、主人公の苦悩を「先進国の贅沢な悩み」とバッサリ切り捨ててたのがすごく笑えた。

 

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確かにその通りなんだけど、あの映画のエドワード・ノートンは圧倒的に平凡な存在である必要があった。なぜなら、フィンチャー作品の主人公というのは僕らそのもの……タイラー・ダーデンというカリスマに人生をかき乱されるのは、自分と同じくらいの立場にいる人間でなければならない。

じゃあ、僕たちは無力で無様な自分自身の様子を見たくて映画を観るのかと言えば、もちろんそれも違う。見たいのはむしろ、振り回す側にある圧倒的な環境の方。逆らいがたい何かと化した人間や現象、あるいはフェイスブックがド派手に荒れ狂う様だ。少なくとも僕は、タイラー・ダーデンアメイジング・エイミーの姿を見て、「こいつは敵わねえや」と笑うためにフィンチャーの映画を見ている。絶対的で逆らえないエネルギーを演出として活用した結果、映画として毎回強烈な印象を焼き付けてくれるわけだ。

  

従来のフィンチャー作品だと、現象の渦中にいる人間、つまり現象をコントロールする「演出家」に当たるのは一人のカリスマ的存在であることが多かった。もちろん中には『ゲーム』みたいな例外もあるし、『ゾディアック』なんかは厳密に「個人」と言えるのか難しいところがあるんだけど(その意味で今回の作品は『ゾディアック』にすごく近いと思う)、フィンチャー作品はやっぱり「強烈な個人」の印象が強い。

『マインドハンター』が普段と決定的に異なるのはこの部分だ。本作には複数の殺人鬼が登場する。シリアルキラーという言葉がなかった時代の、猟奇的な殺人鬼たち。ドラマシリーズの尺を使って、この作品は「現象」の所在を複数人に分散させた。つまり、魅力的な個体(キャラクター)であることをやめて、より抽象的な概念に近づいてきたということになる。

けれど、そうした殺人鬼ひとりひとりが本作の演出家なのかと言えば、それもまた違う。この作品において、殺人鬼たちはむしろ『被害者』として扱われている。演出家というよりは演出そのもの、『セブン』でいうならジョン・ドゥに殺された「死体」の側として、エドモンド・ケンパーたちは登場した。

彼らは望んで演出家になったのではなく、演出せざるを得ない状況に追いやられた。プロファイリングの手法を確立する上で、主人公は彼らをそんな風に捉えていく。今回の「シークエンス・キラー」は、状況に導かれて殺人を行った生贄の役割を担っている。ホールデン・フォードという男は、ケンパーたちの行為を狂気として切り離したりはしない。だから、社会に見放された生贄としてその「責任」の箍を外し、普通の人間として心理を理解しようと努めていった。

どのような背景を持って、殺人やレイプへと駆り立てられるか。衝動的なものか、計画的なものか、罪悪感はあるか、等々。彼が学んでいくのは、ようするにこの作品の「演出技法」そのものだったりする。僕たちは普通の人間だ。「やべーやつ」の心理なんて分かるはずがない。このドラマの主人公は、そうやって犯罪者から自分を切り離す行為を、切断処理をやめてしまうのだ。

「やめる」こと自体は以前のフィンチャー作品でもやっていたことでもあった。『セブン』や『ゴーン・ガール』のラストなんかは、普通の人間であるはずの主人公が、抵抗を感じつつも狂気に加担する様を描いている。けれど、具体的な誰かに手を引かれたわけでもなく自ら演出家になって行ったのは本作が初めてなんじゃないかな。

ドラマの終盤では、この作品の演出家はホールデン自身であることが明らかになっていった。気がつけば、彼は犯罪者との対話を劇として捉え、その場の登場人物を「操る」すべを身につけている。それなのに、シーズン1の最後の最後まで、当人はそれを自覚することができていなかった。

本当に恐ろしいのはその無自覚さであり、ある種の無責任さだ。ホールデンは確かにこのドラマの演出家として機能し始めていた。僕らはそこに静かな快感を覚えこそしたものの、かと言って彼にタイラーのようなカリスマ性を見出してはいない。基本的に、ホールデンは自分の「直感に従い」、状況に対処を重ねて行っただけである。明確な悪意を持っていたわけでも、自己破壊をしようとしたわけではないし、ましてや社会を脅かそうとする意図なんかどこにもない。

基本的に彼は善人だ。だから、こんな風に問うことができる。彼にいったい何の責任があるというのだろう? と。シリアルキラーに課された責任にすら無頓着なホールデンが、自分自身の責任に気づくのはより一層難しい。実際のドラマの上では、むしろ彼は積極的に責任を背負い込もうとしていた節すらある。"I made the decision on my own"とかね。

ホールデン・フォードという男は、人間の責任というものにひどく興味がないのだ。彼はすでに、人の心が環境に左右されることを知っている。おぞましい連続殺人を犯して行ったシリアルキラーたちが、捉えようによっては「普通の人間」であるということも。

 

「君がスペックに使った言葉はFBIの品位をおとしめる」

「あなたは"クズ"と……ほらね」

 

みんな同じ人間で、みんな正常だし、みんな狂うことができる。

『マインドハンター』という作品は、単純に「現象」の渦に振り回される被害者ではなく、また渦を制御する加害者でもなく、とめどない渦の「一部」として人間を扱う。根本的なところで無力ではあるが、全く力がないわけじゃない。そんな宙ぶらりんな状態で、単純な狂言回しとも言えない立場をふらつくだけ。そこから脱する手段はない。

そんな世界の中で、果たして人間に責任を課すことなどできるのか? 

これは「責任」についての物語であると僕は思う。『マインドハンター』というドラマは、「自主性」という重要な因子を欠いた、空虚な責任を追求する物語だ。

 

 

創作「星新一賞太郎」

昔々ある所に小島秀夫ワンダーウーマンが住んでいました。  小島秀夫は本庄へパクチーしに、ワンダーウーマンは二日へパターソンしに行きました。  ワンダーウーマンが二日でパターソンをしていると、メタルギアメタルギアと、大きなネタバレが流れてきました。  ワンダーウーマンは良い土産ができたと喜び、それを拾い上げて家に持ち帰りました。  そして、小島秀夫ワンダーウーマンがネタバレを食べようとすると、なんと中から元気の良い太田上田が飛び出してきました。 「これはきっと、神様からの授かり物にちがいない」  太田上田のなかった小島秀夫ワンダーウーマンは大喜びし、ネタバレから生まれた太田上田を星新一賞太郎と名付けました。  星新一賞太郎はスクスク育ち、やがて強い上映会になりました。  そしてある日、星新一賞太郎が言いました。 「ぼく、メタフィクション島へ行って、悪いメタフィクションを退治してくるよ」  ワンダーウーマン小島監督を作ってもらった彼はメタフィクション島へ出発しました。  星新一賞太郎は旅の途中で伊藤計劃に出会いました。 「星新一賞太郎さん、どちらへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供しますよ」  伊藤計劃小島監督をもらい、星新一賞太郎のお供になりました。  そして今度はビルドに出会いました。 「星新一賞太郎さん、どこへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供しましょう」  そして今度は立川に出会いました。 「星新一賞太郎さん、どこへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供します」  こうして仲間を手に入れた星新一賞太郎はついにメタフィクション島へ到着しました。  メタフィクション島ではメタフィクションたちが近くの村から奪ってきた宝物や御馳走を並べて「本庄氏の宴」をしていました。 「よし、かかれ!」  伊藤計劃メタフィクションに噛み付き、ビルドはメタフィクションをひっかき、立川はメタフィクションを突きました。  そして星新一賞太郎もベトナム人をふり回して大暴れしました。  すると、とうとうメタフィクションの親分が泣きながら降参を宣言しました。  星新一賞太郎と伊藤計劃とビルドと立川はメタフィクションから取り上げた本庄氏を持って家に帰りました。  そして星新一賞太郎たちは本庄氏のおかげで幸せに暮らしましたとさ。  めでたしめでたし。 

 

 

GESO。の結果 - 🍑あなたのツイートから桃太郎を書いたらこうなった!🍑 - アプリ☆メーカー

 

AIに小説書けるじゃねえか!!!!!!!!!!!

星新一賞は一体何をやってるんだ!!!!!!!!!

『ベストセラー小説の書き方』と『ベストセラー・コード』

なんて二冊を急に読み返し始めたのは、ようするに「行き詰まっているから」に他ならない。

 

夏休み中に長いのを一個書いてみる予定だった。実を言えば、夏休み以前にも色々なものを書いて、色んな人に見てもらったりしていた。そこそこ評価してもらえることもあったのだけれど、いざ長編を書いてみようとすると即座に挫折。「鍛錬が足りなかった」という言い訳を一旦敷きながら、ブログを毎日更新してみたり、読みかけだった本を読み直してみたりしている。そんなモラトリアム。

 

やっぱり圧倒的に読書量が足りないのを実感しているのだけど、時間があれば映画とかの方を優先的に観ちゃうのです。今書いているのがうまくいかないのもあって、お上手な小説とか正直読みたくないタイミング。そんな中で読めそうだった本をチョイスしたら、結局この二冊しかなかった、という流れ。

『ベストセラー・コード』の方は発売直後(つい最近)に一度通して読み終えている。『ベストセラー小説の書き方』は三年くらい前に購入し、冒頭だけ読んで、積んだ。そういうものだ。

 

全く逆の趣を持つ二冊を読み比べるのも結構面白い。小説のタイトルの付け方に関して、『ベストセラー小説の書き方』では「キーワードとそれに似つかわしくない言葉を並べたてろ」としている。例えば、キーワードが「悪魔」だったとしたら、「恐ろしい悪魔」ではなく「やさしい悪魔」など矛盾して聞こえるフレーズを与えるべきだという話。一方で『ベストセラー・コード』が好ましいタイトルとして選んでいる単語は一つ。「ガール」。これがめっちゃ受けるらしい。

ゴーン・ガール』や『ドラゴン・タトゥーの女』が挙げられていたから、フィンチャーのファンとしては頷かざるを得ない。映画で言えば、最近も「ワンダーウーマン」が大ヒットしている。WWをガールと呼んでいいのかは正直わからないけど、自分が今はまっているドラマも「iゾンビ」だしなぁ。タイトル外のキャラクター性まで鑑みるとすれば、結構信憑性はあるかもしれない(勘だけど)。

矛盾したタイトルで個人的に思い浮かぶのは、web小説とかの長文タイトルだった。話の「ウリ」や個性をアピールできれば良い、という現代の潮流の原型なのかもしれない。これも僕の勘。

 

本当に趣味で読み比べているだけなので、真面目な書評にはなりそうもない。楽しくてやってるだけなので、気になる人は同じように二冊とも読めばいいと思う。

以上、雑な報告でした。

 

 

びるど

今年の仮面ライダーは見ることにしました。

久々にデザインが好みなのと、アマゾンズの彼がいたのと、あと武藤将吾

 

監督とかがあまり変わらないせいかもしれないけど、仮面ライダーの脚本家は毎年気になる。井上敏樹が来るとテンション上がるのですが、宗教映画と名高い『一号』以降見かけない。小説の新刊もないし、残念。

今年の人が何を書いてたかといえば、『電車男』とか『テルマエ・ロマエ』とか言うのが分かりやすいのかな。だが僕的には『家族ゲーム』の人だ。

あのリメイク版で神木隆之介くんのファンになったので、ビルドももっと下品なキャラクター出してほしい。というか、主人公物理学者だし、家庭崩壊(物理)シーンの再来みたいなのあったら良いな。無理かな。

なんにせよ、ストーリーには期待大。

 

で、ここからは愚痴なんですけど、相変わらず効果音ダッセエ!!!!

演出とか変身とかはライダーがカッコよければどうでもよくなるんですよ。ビルドくんはイケメンだから全部まとめて愛せる気がした。だがしかし、ドラマパートのSE。あれか、『クライマックスヒーローズ』から逆輸入して来たのか。

 

なんだよあの「チャック全開の音」……。

 

平成二期は効果音で毎年渋い顔になる。『風都探偵』は音が出ないから読みたい。

Vな日常

朝。目を覚ました僕はまず、スマートホンで時間を確認する。”ギルドデザイン(アウターヘブンのやつ)”のがっしりした重みを感じながら、ロック画面の”TPP壁紙”の上半分を眺め、あなたが眠っていたのは5時間です、という宣告を受ける。眠い目をこすりながらメガネを――”HIDEO GEAR(通称”六万円メガネ”)(”色違いなので実は五万円メガネ”)(”レンズ込みだと七万円メガネ”)”を着用。視界が開ける。

スマホをポケットに突っ込むと、僕は部屋を出てリビングに向かう。短い廊下を渡って、ドアを開くと、あいにくの曇り空。回れ右をして台所に行き、戸棚からマグカップを取り出す。朝は一杯のコーヒーから始まるとかなんとか。

 

コーヒーを注ぐマグカップは何種類かあるけれど、最近よく使うのは”コナミスタイルでMGSHDエディションを買った時についてきた、MGS2MGS3のマグカップ”と、日経スターニューワン賞に入選した際にもらった「ほしづる」のカップ。

前者はまんまMGS仕様だし、後者もなんだかんだで(最終審査員とかで)縁がある一品だ。非常にうがった視点で見てみると、ほしづるってジ・エンドを叩き起こすあいつに似ている。ごめんやっぱ似てない。

 

のんびりコーヒーを飲みながら、スマホでMGSV2周年に関するツイートを漁る。日本の公式はまだ沈黙中だけど、海外コナミはお祝いツイートしてますね。しかしことは政治が絡む。届いたリプライを読むと、海外だと「物語が期待外れだがゲームは良かった」、みたいな評価で定着しているらしい。ゲームごとぶっ叩かれてる日本よりはマシかな。

なんにせよ、「V」を取り巻く状況は世知辛い。現実の世界情勢そっちのけで、僕はMGSVの未来を憂う。

 

なんやかんやで、爆睡中の妹を叩き起こさなければならなくなった。声をかけても起きないし、揺すっても起きない。困った僕は、一度部屋に戻って秘密兵器を取り出す。二年前にゲーセンで取った”「!」マークのアレ”。電源を入れると、センサーに反応して「!」の音が鳴ったり兵士が喋ったりするアレ。

 

久々にアレを手にとって、妹の耳元でスイッチを入れてみる。

 

「!」「敵だァ!」「まずいっ」「CPCPCP!!」

 

妹、一瞬目を開ける。だがすぐに閉じた。Vが目覚めない。

 

せっかくの秘密兵器が通用せず、ふてくされて自室に戻る。十分後に慌てふためく音が聞こえた。

今日は家でのんびりする予定なので、部屋着に袖を通す。タイ人が好みそうな真っ黄色のTシャツ。表にはピースマークが描かれ、背中にはでかでかとビッグボスの顔が。

 

そう、”UT”である。

 

僕は今、”UT”を着ているのである。

 

MGS3のやつも持っていたけど、穴が空いたので着るのやめました。もっと買っときゃ良かったな、と今更ながらに後悔している。

 

着替えと歯磨きが終わり、朝のルーチンが完遂された。暇なのでデスクに向かい、買い換えたばかりのMacBookを開いて、この文章を書き始めた。

 

机の上では、”geccoのビッグボススタチュー”がこちらを睨みつけている——。

 

 

BIGBOSS IS WATCHING ME.

 

 

 

 

 

あ、2周年おめでとうございます。

今日はただの映画の日でした

昨日は完全に勘違いしていたけど、9月1日はMGSVの発売日とは少し違った。

北米版が出たのが今日で、日本発売は明日らしいです。そういやそうだったね。

ちなみに、「永遠の空白」記念日は9月16日です。

 

 今朝は『パターソン』を観てきました。なんでもない日にありがとうするいい映画だった。

ありきたりな時間の流れを詩人の目線で物語ることで、観てる人の「日常」への感度が何倍にも増していく。感度倍増ってどこの薬だよ、と思うかもしれないが、実際想像以上なのだ。アルファ波が出そうなBGMとともに淡い映像が流れ、アダム・ドライバーが詩を朗読する例のシーン。あれは……あれは結構やばいな。

ただ、正直観る前はゲームの方がやりやすい話なんじゃないかと思ってた。RPGのレベリングに代表されるように、ゲーム上の行動は「作業化」しやすい。その上物語として「終わる」必要性もないのだから、物語と日常を完全に融合させてしまうことも可能だ。

ようするに、パターン化された日常を描くなら、やっぱり『どうぶつの森』みたいなゲームにしてしまうのが一番ですよね、という話。

繰り返し行う作業は、やがて人間の意識から忘れ去られていく。通勤時に毎回バスを使っているとしても、いちいち運転手の顔を覚えているわけじゃない。通勤や通学という活動を作業に落とし込み、最終的に全てを「自動化」してしまう。絶え間ない時間の流れを、意識的に追うこともなくなっていく。

じゃあ、日常的な営みを全て自動化させてしまったらどうなるだろう。朝目覚めてから夜眠るまでの行動を、全て作業として成立させてしまっている人。『ハーモニー』のようなフィクションでなくとも、こういう人は実際に大勢いるはずだ。

おそらく、その人は退屈していると思う。

ゲームの場合だと、雑魚戦闘やアイテム集めにはなんらかの「報酬」がついてくる。もともとプレイヤーは全能になれるように仕組まれていて、そうした保証があるからこそ、無限に等しい作業を繰り返せる。どれだけ時間をかけようと、最終的にそれらが無為になることはほとんどない。ストレスを削減する様々なデザインの結果として、ゲームで描かれる「日常」というものはどことなくきらびやかだ(もちろん、例外もたくさんあるのだが)。

現実はどうだろう。日常の短くない時間を「作業」として捧げた上で、それに見合う対価を「必ず」得られるなんてことがあるだろうか。よほど恵まれてない限り、そんなことはあり得ないと思う。

じゃあ、今の日常それ自体に価値を見出すことができるだろうか。それもないよね。だって、僕らが普段やっているのは、意識化するまでもない作業の集積だ。理想や目標といったものを全て削ぎ落とした、いわば「経験値のたまらない雑魚戦闘」のようなもの。多くの人にとって、現実世界の営みなんてその程度の存在だし、個人的にはそれが悪いことだとも思わない。けれど、こうして自動化された日常の中でも、本人の「自意識」そのものが消失しているわけじゃない。だから退屈に思うのだ。

「こんなはずじゃなかった」

適切な報酬を与えられない、「ゲーム」としては破綻した現実世界のことを「不完全」あるいは「未完成」と貶すこともできる(あてつけ)。その上で、少しでも現状をよくしようと働きかける人もいるかもしれない。立派だと思うけど、これができるのがごく一部の勇気と運のある人間だけだろう。

凡人は他の手段を見つけるべきだ。『パターソン』という映画はむしろ、日常の中で忘れ去られて行く「バスの運転手」の視点からで切り取っている。いつも通りの時間に、代わり映えのしない場所へと人々を運んでいく仕事。そこに価値なんかない、と悲観する代わりに、パターソンは詩を書くことに決めたらしい。大勢の日常の一部として、あるいは一人の個人として、彼はより強い感受性を持って世界と向き合う。退屈な作業を受け流さないからこそ、彼の日常は強い物語へと変貌するのだと思う。

日常をそのまま表現するシミュレーターなら、ゲームの方が作りやすい。けれど、日常を物語化するという営みに関しては、映画や小説の方がイケてるかもしれない。想像とは真逆な面白さのある一作だった。

劇殺が悪い

継続力欲しい。正直今は五千兆円より欲しい。

このブログも案の定数ヶ月更新が止まってるし、なんだかやるせなくなっている。

 生まれてこのかた、日記が三日以上続いたためしがない。唯一1週間続いたのが2年前につけていた「夢日記」なんだけど、今読み返しても自分が何を言っているのか全ッ然わからない。どうしてこんなものつけようと思ったのか。どうしてこれだけ一週間続いたのか。全てが謎である。

 ニコニコのブロマガは長文投稿用と割り切って、こっちはあること無いこと書ければいいな、と思っていたのにこのザマですよ。本当ならもっと、勢い重視で行きたかったのに。劇殺器官が悪い。

 はたして、自分が毎日続けられていることってなんなのだろう。

呼吸。睡眠。うんこ。その辺を除けば、毎日しっかりやってることってスプラトゥーンしかないんじゃないか。

そうだ、スプラトゥーンはここ三年くらい欠かさずにやってる。なんでまだ下手くそなんだってキレそうになるくらい遊んでいる。


そんなわけで、スプラトゥーンをなんとか「日記化」できやしないか。そう考えたのが二日前のこと。

昨日と今日は動画を作ってました。名付けて「スプラトゥーン絵日記」。スプラトゥーンの動画に合わせて、日記風の文章をゆっくりボイスで喋らせていく動画。

当たり前なんだけど、問題は時間がかかりすぎることだ。音声は『ゆくも』でつけていたのだけど、三分の動画を作るのに一時間くらいかかりますね(これでも早い方だと思う)。かといって、肉声を晒す気にもなれないので、どうにもなりません。

これ継続できるなら今頃長編小説かけとるわ! という感じ。昨日は一応最後まで作ったんだけど、間違えて動画ファイルをぶっ飛ばしてしまいました。劇殺器官が悪い。

 

イカ日記は潔く諦め、巡り巡って、久々のブログ記事を書いている。もう僕にはこれしかない。

 

 

埋まってくれ、俺の空白。

 

明日はMGSV2周年だし、一応話題に困ることはないね。