【2018夏】平成の最後の夏の映画の感想の話

 約一週間で映画館に5回も通ってしまった。どうかしてるぜ。せっかくなので全部感想を残しときます。文章は「観た順」ではなく「個人的に面白かった順」です。ただし、基本的に全部面白いので誤差みたいなものです。『ウィンド・リバー』が良すぎたのが悪い。

 感想書いた日がまちまちなので文体とかもバラバラです。観た映画が増えるごとに無言で追記するよ。

 

・『ウィンド・リバー

 この夏一番の冬映画(春)。

 

 よく、「映画は映像で語るべきだ」という話を目にする。映画と小説は違うのだから、重要な事柄は役者に言葉で語らせるんじゃなくて、はっきりと画面に映すべきなのだ、と。

 しかし、「見せない/見えない」ことも映像の一部である。たとえば、ホラー映画は恐怖の対象をはっきりと「見せない」ことでより一層怖くなるし、対象の姿が見えすぎると却って萎えてしまうこともある。

 ホラー映画とは少し違うが、デビット・フィンチャー監督のドラマシリーズである『マインド・ハンター』なんかは、シリアルキラーの話であるにも関わらず「死体」がほとんど画面に登場しない。その惨状は殺人鬼自身の口から朗朗と語られるのだ。自分が被害者をどのように追い詰め、そしてどのように殺し、死体をどのように「装飾」したのか――異常殺人の様子は映像ではなく言葉で示される。『ファイト・クラブ』のサブリミナル演出や『SE7EN』の「箱の中身はなんじゃらホイ(悪夢)」からも分かる通り、あのフィンチャーも実は「見せ過ぎない」ことを武器にする映像作家だった。

 本作『ウィンド・リバー』もまた、ある意味では見えない映像の傑作だ。テイラー・シェリダン監督が作品の舞台として選んだ大雪原は、その広大さ故に視覚的な情報が存在しない。死体を発見するのも一苦労だし、唯一の手がかりである足跡もわずかな時間で消失してしまう。

 しかし、上記の作品群と異なるのはそれが「舞台設定」であって「演出」ではないという点だ。それは作り手の意図を超えた「現実」そのものの問題であり、作中の登場人物たちも嫌という程認識している極限状態なのだ。

 本作の登場人物は今時珍しいくらい饒舌だった。「ウィンド・リバー」に住まう人々には、物事を言葉にしようという意識がある。なぜなら、被害者である「彼女」が走った距離の重みは、言語化することでしか伝わらない。『マインド・ハンター』の殺人鬼とは対象的に、本作は「被害者」や遺族の視点から、虚無を駆り立てる雪原を情緒豊かな言葉によって埋め尽くそうとしている。

「現代」の話とは思えない切実さ。だからこそ、この夏一番突き刺さった雪国の映画。お願いだから、『ウィンド・リバー』を観に行って欲しい。『アベンジャーズ』と『ミッション・インポッシブル』で姿を消したジェレミー・レナー成分をたっぷり味わえますよ。観に行ってね♡

 

仮面ライダービルド

 夏休みといえばポケモンよりこれ派。『アマゾンズ』に結局行かなかったので特撮久々。

『劇場版ビルド』はアクションよりも「人ゴミ萌え」するよい映画だった。

 人ゴミ萌え、というのは読んで字のごとく「大量の人間がぞろぞろ動いている姿(俯瞰視点)に興奮する」という僕の体質です。最近だと『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』でルーナが生存者に紛れてぞろぞろ歩いて行くラストとか、それこそ『アマゾンズ』のシーズン1ラストでぞろぞろするシーンとか、あの独特のキモさがグッとくるじゃないですか。

  加えて今回は「人」の扱いが本当に「ゴミみたい」だったので(エキストラそれでいいのか、と思ったりもしたが)、別の面白さが加わっているようにも感じた。

「人がゴミのようだ」という比喩じゃなくて、「そもそも人はゴミだ」と言わんばかりのクソ大衆ムーブ。しかも洗脳が解けた後すら(いい意味で)後味悪い。ライダー衆愚である。

 で、その露骨さがビルドのヒロイズムを明確にしちゃうのだ。もともと「仮面ライダービルド」で描かれるヒーロー像は本当に素晴らしいよね。「ライダーとショッカーは本質的に等価」=「仮面ライダーは軍事兵器」というお約束の読み替えとか、「悪魔の科学者と呼ばれた男が思い描いた守護聖人像」=「桐生戦兎」=「仮面ライダービルド」という主人公の設定とか、なんかもうすごいのである。半ば強引に「正義のロマン」を見せつけてくるこの作品のあり方が僕は本当に大好きで、正直平成二期で一番推しているヒーローだったりする。勝利の法則にガンギマリだ。

  ファイズの一万人エキストラより僕はこっちの方が好きかもしれない。

 

・『ミッション:インポッシブル フォールアウト』

 イーサン・ハントよりトム・クルーズの方がやばいことで有名な一作。IMF工作員のイーサンは一度きりのHALO降下を見事成功させるが、トム・クルーズは俳優なので同じジャンプを後100回繰り返す。

 

 そういう仕事だ。

 

MGS3』の冒頭と同じあの「HALO降下」を実写で観れる、それ自体はもちろん眼福極まりない。しかしこの撮影、下手したら死ぬ。

 

 そういう仕事だ。

 

 HALO降下は数あるアクションシーンの一つに過ぎず、本作の中でトムは決死のアクションにノースタントで挑む。一つ一つの撮影が命がけであることは、たとえば車の助手席に座らされたショーン・ハリスの鬼気迫る表情を見れば分かるだろう。

「下手したら死ぬ」の連続を見ながら、観客はこの映画のあり方をメタ視点で捉え始める。この映画のプロデューサーが誰かは知らないが、間違いなくトム・クルーズに殺意を抱いているに違いない。本来ハリウッドセレブはここまで過激なスタントに挑戦してはならないのだから、金を払ってでもトムを事故死させようという「意思」を、僕たちは感じずにいられないのだ。

 

 しかし――ネタバレになってしまい申し訳ないが、エンドクレジットでは衝撃の事実が明らかになる。なんとこの映画のプロデューサー、トム・クルーズ自身なのだ。

 トムを殺そうとするのはトム自身。シャマランもびっくりのどんでん返しによって、この作品は「メタフィクション構造のサイコ・サスペンス」として歴史に名を残すことになるだろう。なったらウケるな。

 

・『オーシャンズ8』

 ケイト・ブランシェットがかっこよくて、エル・ファニングの姉がかわいい。

 そんな「あたりまえ体操」みたいな映画だけど、全部ちゃんと絵になるからずるい。おもろい。

『フォールアウト』とは対照的で、「弱みを見せる必要性」が全くない映画ですね。撮影はハードだったらしいけれど、決して命がけではないだろうし(比較対象が『フォールアウト』なのがおかしいんだけど)。

ウィンド・リバー』とは比べ物にならないほど視覚情報に恵まれているので、特に何かを指摘しておく必要はない。何もいうまい。ただ、次回作があればエマ・ワトソンを「クソみたいな金持ち役」とかで出して欲しいですね……。

 あと、ダコタ・ファニングの妹もカメオ出演してね。

 

・『ペンギン・ハイウェイ

 虐殺器官のエピローグを消滅させたプロデューサーが、また子供達の思い出から大切なものを消し去って行く映画。そんな風に捉えてしまう僕の認知が明らかに歪んでいるだけで、決してつまらない映画ではないと思う。

 

 

 ……という前提で。

 

 

 序盤も序盤、アオヤマくんが道路を突っ切った時に急停車する車から、一瞬間をおいて身を乗り出した女性が一言「こらーっ!」と叫ぶじゃん。原作の冒頭にあの車は出てこない。つまり、あの車はアニメの演出として出現した「演出カー」だ。もちろん、その出現自体は問題じゃない。

 でもちょっと、違和感ある。キャラクターの行動原理が「演出意図」以外に何もないアニメーションって、僕はそこまで好きじゃない。で、そう言ってしまうとこの映画の99%くらいが楽しめなくなってしまう。困った。

 良くも悪くも、ここまで整理整理整頓の行き届いた映像を久々に観た気がする。とにかく、白黒はっきりし続けた映画である。動きに迷いがない。キャラクターの口調も森見口調/その他口調がきっちり分かれていて、前者には俳優、後者には声優というキャスティングも含めてかなり露骨に感じた。これって原作通りなのか。原作はここまで明確にキャラを「差別化」していたのだろうか。

 もともと整理されていた原作をさらに整頓してしまった。そういう印象がある。ただ、そもそも森見登美彦原作のアニメ作品が面白い理由って、ウェットな人間ドラマを細部から排除している部分にあるのだから、動きの細部に「奥行き」なんてくだらないものを求める僕の方がナンセンスなのかもしれない。

 でも、『ペンギン・ハイウェイ』が本来持っているはずのツァイガルニク効果……ようするに「永遠の空白」じみた答えのなさ……に対してああいう「くっきり」した演出のスタイルは相性が悪い気がする。正直めちゃくちゃすっきり終わってしまった。後腐れがない。

 何が言いたいかと言うと、原作のエピローグをカットした後にいきなりゴリゴリのEGOISTが流れ始めるくらいの冒涜がないと俺はもう作品を「引きずりたい」気分にはなれない体になってしまったということだ。責任を取って欲しい。

【感想・考察もどき】『13の理由』はいかにして自殺を描いたのか(シーズン1)

1. A面:ハンナの視点

「自殺」に関する誤解。

死の前後において部外者がやってしまいがちなミスとして、「大きな理由」のみを追求してしまう、というものがある。

自らの命を絶つほどのことをしたのだから、その人はきっと重大な「事件」に巻き込まれたのだ、と。そう思い込んだ結果として、僕たちはレイプや虐待のような「事件性」のある出来事ばかりに注目し、小さな出来事に目を向けなくなってしまう。

これは本当によくない考え方だ。全ての自殺者に、必ずしも大きな引き金があるとは考え難い。むしろ、「小さな理由」を少しずつ蓄積することによって、人の思考は少しずつ自死へと誘導されてしまう。

たとえるなら、それは格闘ゲームの「コンボ」のようなもの。現実世界で人を殺すのは、決して必殺技ではない「小ダメージの連続性」だ。日常のいろんな場所で、人は少しずつ「傷」を増やしていく。そのひとつひとつが些細なものであっても、休む間も無く悪い刺激を受け続けると、やがてひとつひとつのダメージが「繋がっている」ように錯覚してしまう。

本当に人を殺めるのは、この連続性の延長上にある「八方塞がり」の感覚なのだ。苦痛はこの先も繰り返される。現実はもう対処不能だ……そう思えて初めて、人は自らの命を断とうとする。

だから、最後に人の背中を押すのはいつだって、ひどく些細な出来事だ。

「若者にとって大事なことを、大人は軽く考えがちだ。若者は大人と違って、いまの苦痛が”永遠”に続くと思ってしまう。そして大人はそれを忘れる」

『13の理由』シーズン1の特典映像の中で、制作総指揮を務めるブライアン・ヨーキーもこのように指摘する。ハンナ・ベイカーという少女が作中で経験する悲惨な出来事の「規模」は大小様々だった。目を覆うような暴行や、取り返しのつかない事故などと比較すると、例えば彼女がSNSで受けた中傷や陰口(slut-shaming)の事件性はやはり低く感じられる。とりわけ主人公のクレイ・ジェンセンが彼女にとった行動は全て善意によるものなので、彼を理由の一つとして数え上げる(=一部の「犯罪者」と同列に扱う)ことは、クレイにとって酷であるとしか言いようがない。 

けれど、やはり「理由」に大小などないのだろう。テレビドラマのエピソード形式を巧みに利用し、本作は「13の理由」の全てに同じ分量の時間をかけ、同じ悲痛さを感じさせるように作り込んである。大きな事件にばかり目がいくような物語にせず、小さな問題を無下にしない構造を取っているというのが、このドラマが傑作である理由の一つ。

 

2. B面:クレイの視点

クレイとハンナは仲が良かった。堅物の彼は時にその性格をハンナに茶化され、時にその鈍感さで彼女を怒らせてしまう。様々なイベントを通して進展していった二人の関係は、けれど実を結ぶ前にハンナの自殺で断ち切られる。本作の物語は、全てがすでに「終わった」状態からスタートする。 

ハンナの感情に寄り添って制作されたドラマの中で、結果的に最も報われない役回りに当たるのが本作の主人公、クレイ・ジェンセンだった。『13の理由』では、ハンナのテープで語られる彼女のドラマと並行して、当時の二人の関係性についてもクレイの目線から回想されていく。それはあくまで回想に過ぎず、後から思い返したところでどうにもならない。クレイはそれを自覚しているからこそ、誰よりもテープの内容に傷つけられるのだ。

本作の「エンタメ性」を盛り上げる要素の一つに、ハンナの両親がクレイたちの学校を訴える、というものがある。ドラマ開始時点では、両親もハンナの自殺の「大きな理由」を把握しようとしていた。ハンナがいじめられていた可能性を危惧し、疑心暗鬼になった夫婦は度々学校に乗り込んでは、教師や保護者、そして一部の生徒たちを困惑させている。

クレイの母親が学校側の弁護士として登場するなど、その進展は確かにドラマの緩急を作り出した。しかし、本来なら最も重要なシークエンスである結論、つまり「判決」の場面において、このドラマは急に失速し始める。

本作では、物語の中で明確にだれかが裁かれたり、罰を受けたりするシーンがほとんど描かれていない。ハンナの死後にカタルシスが得られるような作りになってしまうと、それは本当の意味で自殺を描くドラマにはならないからだ。製作陣は徹底して作品から「罰」を取り除き、クレイに一度理不尽と戦うことを要求した。

終盤に向かうにつれて、ハンナの死の不可逆性はより露骨に描かれるようになっていく。本作にはもう一つ、非常に残酷な演出があった。「回想」と「夢」、そして「現実」を同質に描くことで、その境界を曖昧にしているのだ。

「ハンナがいれば回想、いなければ現在」というようなわかりやすい区別をつけることができず、視聴者は時折その境界を見失ってしまう。「ハンナは死んでいる」という事実を時折忘れさせるような描き方を、このドラマはわざとやっている。

これは単なる意地悪でやっているのではなく(いや、実際意地は悪いと思うけど)、他人の死をリアルに描こうとした結果なのだと思う。なぜなら、人の記憶は基本的に死者と生者を区別しない。今、この瞬間に死んでいるはずの人であっても、記憶の中で思い返す限りは生きている人と同じように「想起」されてしまうのだ。

「喪」というものの恐ろしさは、実はここにあるのだろう。クレイはカセットテープという形として回想を強いられ、結果として今、ここの空間に彼女の影を見てしまう。演出としてそのように描かれているだけでなく、実際に病的な幻聴や悪夢に苦しめられるシーンもあった。彼の記憶の中でハンナは生き続けてしまう  その恐ろしさを視聴者に体感させる仕組みとして、本作は「記憶の実質化」を演出に取り入れた。

いくつもの回想を経た上で、ハンナの自殺シーンは最終話でようやく描かれることになる。作中で最も痛ましいリストカットの描写を通して、視聴者はやっと「彼女が死んでいる」という事実を認識し始める。

クレイは最後の数エピソードの中で、彼女を傷つけたある事件の証拠をつかむために奔走することになる。もちろん、最終的に手にした「証拠」がどのように利用されたは「シーズン1」では描かれていない。だれかを罰するためでなく、彼自身がハンナの呪縛から解放されるための「通過儀礼」として、『13の理由』のドラマは存在している。

 

3. 感想

正直、多くのドラマは「自殺」を描くのが下手くそだと僕は思う。大抵の場合、ドラマでの自殺は「大きな理由」をいかに味付けするか、という点にばかり力を注ぐので、現実の死者から乖離した描写に感じることが多かった。加えて、その先の結論に「彼女は記憶の中で生き続けている!」などという不可解なポジティブシンキングに陥りがちで、「物語」という枠組み自体が自殺を描くのに向かないんじゃないかと、一時期は考えていたりした。

けれど、そんなことは全くない。『13の理由』という作品は、ハンナの記憶を呪いとして扱った稀有なドラマだ。彼女はクレイ達の心の中で生き続けている。それが何よりも「キツい」のだと言い切っちゃったことに、このドラマの本当の価値があると思う。

 

「多様性」について

 最近、「支持したいけど好きじゃない」と思うような映画がすごく多い。今こんな風に書くと「『シェイプ・オブ・ウォーター』の話か」と思われるかもしれないけれど、まったくその通りです。

 

 あの映画がアカデミー作品賞を取ったこと自体はすごく嬉しい。それに、『ブラックパンサー』とか『ワンダーウーマン』とか、ギレルモ・デル・トロ監督の言う「The Others」に括られた人々が堂々と映画製作に参加できるようになってきたのはもちろん大事なことだと思う。できるなら僕も仲間に入れてもらいたいものだ……実写「メタルギア」の脚本チームとかさ(冗談ですよ)。

 ただ、今挙げた3作品を劇場で観てみた感想として、『ワンダーウーマン』以外にはあんまりノれなかった自分がいる。いや、どれもすごいとは思いますよ? こうした映画に文句を言うこと自体が贅沢なことなのかもしれないけど、でもなんだかなぁって。

 

 率直な話、二つの疑問が湧いてきた。

 

・最近の映画は本当にThe Othersを描けているのか

・これまでの映画はThe Othersを描けていなかったのか

 

 どうなんでしょう。

 これまで挙げてきた映画と逆のパターンで、「支持できないけど好き」という映画も去年やっていた。『ゴースト・イン・ザ・シェル』って名前なんですけど、みなさん覚えてますか。

 草薙素子役をスカーレット・ヨハンソンが演じてしまったということで、「ホワイトウォッシュ」とクソミソに叩かれていたらしい映画。正直映画自体が好きというわけではないのだけど、素子役のスカーレット・ヨハンソンはかなりハマっていたよと僕は訴えたい。小声で。

 アメリカでは役者を変えろという署名が十万人以上集まってしまったらしい。日本にいる自分にもその「意義」は何となく分かる(分かる、と言っちゃうのも少々傲慢かもしれないが)。

 ただ、仮にこの署名が功を奏したとしても、個人的な旨味はあんまりなかったりする。この役をアジア人が演じるにしたって、どうせ「日本ではない国の人」が、「英語」で演技をするんだから。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』を見た日本人が気にするのは、どう考えても役者より言語の方だ。登場人物が全員英語でペラペラと喋る中、ビートたけしだけが日本語を使うあの謎の空間。しかも音声自体が聞き取りにくい形に録音されていて、結局英語字幕読んだほうが分かりやすいというおまけ付きだ。スタッフに日本語話者がほとんどいなかったんだろうな、っていうことがすごくよく分かってしまう。残念。

  でも、アメリカの人々は「言語」にそこまで困ってないらしく、この問題はあんまり指摘されることがない。ぶっちゃけ世界的にはかなり問題だと思うんですけどね……英語による世界観の「浄化」。話題の『ブラックパンサー』にしてみても、ワカンダの人々はほとんど英語で喋り倒していた。言語を切り替えるタイミングがよくわからない(気まぐれ)、というのは却って「バイリンガルあるある」としてリアルなのかもしれない。でも、だからなんだよ。制作上の都合の良し悪しで決めちゃっているのだとすれば、それは他のマイノリティ差別と大差ないんじゃないですか。

 

 …………(頭の中のスカルフェイスが暴れ中)。

 

 話は少し変わるが、最近望月新一さんのブログにハマっている。「ABC予想」で有名な数学者のあの人です。

 長年のアメリカの滞在経験を通して、彼は欧米人の「態度」についてこんなことを書いていた。

 

多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます。

https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329/diary/201711140000/

 

 あるいは、英語という言語に関する言及も。

 

子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。

https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329/diary/201711210000/

 

 ……まあ、いろいろ過剰に映るのは事実。でもこれ、個人的にすげえよく分かるんだよね。

 一口に帰国子女といっても、この「アレルギー」を感じる人と感じない人で結構割れる。一例として、ここで僕個人の海外経験の話をしようかなと思ったんだけど、今は就活中なのでやめておきます(ぶっちゃけ、望月氏のこの文章を読みながら不意に涙が溢れたくらいに強いアレルギー体質だった)。

  このブログで望月さんが書かれているのは、異質なもの同士の交流にはむしろ「壁」が必要だということだ。人間の「個性」と呼ばれる部分  映画に求められるような複雑な人間性を描く上では、他者を自分から「分化」させることが必要不可欠だったりする。

 人の思考は枠組みの中で行われている。僕たちは本来、定型(フレーム)なしにものを捉えることができない生き物だ。

 そんな人間が、異文化交流において一切の枠組みを、「壁」を取り払ったらどうなるだろう。正常な思考能力は失われ、日本人も韓国人も「アジア人」と一緒くたにされる。むしろ、「もっとアジア人の自覚を持て」なんて言われちゃう。

 映画で言えば、それぞれのキャラクターの「解像度」が低くなり、その造形は単純化される。悲しいかな、ここには複雑な人間性の理解なんてあり得ない。他者を理解しようとする眼差しは、むしろ善意によって作られた「壁」によって成り立っている。本当に異質な文化との交流を成立させたいなら、却って「立ち入ってはならない一線」の設定が必要不可欠なのだ。

 

 で、このような現実と比較すると、ぶっちゃけ最近のアメリカ映画で描かれている「多様性」というのはわりかし特殊なものだとおもう。僕が求めている「人間性」とは程遠い部分だし、世界全体に響くテーマではない気がする。

 一応言っとくけど、あの大統領を擁護する気なんかないですよ? ただ、望月さんも言うようにアメリカという国が壁に「飢えて」いるという状況自体は事実。そして、ここ最近の「正しい」映画たちは、ある意味で否応無く「壁」を要求してしまう人間心理を徹底的に「排除」しようとしている。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』は多くのThe Othersを受け入れているようで、唯一、心の弱い大人に対して壁を作っている。映画のラストで、守護聖人としての半魚人に首を切られてしまう男の描写。自業自得とはいえ、彼は本当に報われないんだよな。残念だけど、これが正しい成り行きらしい。

 裏を返すと、この映画の「被差別者」に当たる人たちは何一つ間違った行動を取らない。この映画が救うのは一貫して「正しい者」だけだ。悪いことじゃないんだけど、正直息苦しさを感じなくもない。弱者はみんな、心が強いんですか? ここまで勧善懲悪突き詰めちゃって大丈夫なんですか? 

 多様性を描こうとするドラマは、却って人種ごとの役割を単純化し、そのドラマを単調にする。黒人女性が気前のいいおばさんと描かれるように、「白人の男性」は悪役の立場から逃れられない。

 その上で、ストリックランドという人間がひたすら苦しみ抜いて死んでいくあの映画を見終えた時  頭では「正しい」と理解しつつも、僕は感動することができなかった。だからこんな文章を、長々と書いてしまったりした。

 あの国に住まう多くに人にとって、この映画は重要な存在となれるかもしれない。けれど、『シェイプ・オブ・ウォーター』が救ったのはかなり具体的で、かつ「限定」された人々だと僕は思う。結局はアメリカ映画なんだから、そこに日本のThe Othersの席がないというのはある意味当たり前な話かもしれない。

 

 でも、そこを超えて欲しいというのが個人的な願いだったんだよな……。

デススト妄想2.0

 前回の続き。というかほとんど同じ内容の繰り返しなんですけど。

 一つだけ上げ忘れていたものがありました。小島監督ドナルド・トランプのせいで参加できなかったという伝説の学会、「ゲーム的リアリズム2.0」。

 そこに映像で出演していた監督の映像。

 

youtu.be

 

 以下、限りなく書き起こしに近いまとめです。

  「近い将来ほとんどのことはAIがやってくれるようになる。人間の自発的行為は『遊び』しか残らないのではないか」という小島さんの発言は非常に印象的でした。現状のゲームに関する議論といえば、「ゲームは娯楽かそれ以上か」だとか、「ゲームはアートかそうじゃないか」というようなものばかりが散見されますが、それらと比べてみても小島さんの見方はかなり先を行かれているように感じます。そこで最後の質問なのですが、「ゲームがこの先どのように進化していくのか?」「20年後や50年後を考えた時にどうなっているのか?」「ゲームは私たちの世界に対する意識や認識を変えてくれる力があるのか?」……あるいは、「私たちはゲームを通して自由になれるのか?」ということについてお話いただけますでしょうか。

 

小島 まず、将来的には健康管理とか趣味嗜好とか、なんなら会話の内容や表情さえも全部AIが最適化してコミュニケーションを簡単にしてくれると思うんですよ。たとえば喉が渇いたら、その「喉が渇いた」という意志を口にする前に水が出てきて、しかもその水がどこの水かっていうのも全てリサーチ済み。そういう時代はもう間違いなく来ますよね。自分のビッグデータさえあれば、それに伴い何一つ困ることなく生きていけると思うんですけど、ただやっぱり「遊び」となるとそれじゃダメなんです。まず「自由度」があって、その中で自分が「選択」していくわけじゃないですか。「遊ばされる」っていうのは遊びじゃなくて、「自分で楽しむ」行為こそが遊びなんで。だからいろんなものを提供されて、その中で工夫していく必要があるわけですよね。で、その「工夫」こそが最終的に自分を自分たらしめる存在になるというか、かゆいところには全部手がとどく時代ですけど、でも「自分でかゆいところを探す」という自発的行為の余白が未来では意図的に残されると思うんですね。そういう遊びがなくなっていくと、もう人間として終わってしまいます。

 で、これは別に「ゲーム」という括りじゃないと思うんですね。「今からゲームを遊ぶぞ」って言って画面に向かうような従来のゲームもきっと残っているでしょうけど、恐らくそれだけではないと。たとえば、レストランでメニューを「選ぶ」ということが遊びとして残されていたりするんです。というかこれがないともう、何もすることがないんですよ。自分に足りない栄養素が全部わかっていて、どの店に行くかもあらかじめ決まっている。で、店に入ると最適なウェイターが待ち構えていて、最適な表情を浮かべながら一番いい食事を出してくれる。自分は出て来たものを食べるだけ、っていう。食べ方まで教えてもらっちゃったりして……で、それはやっぱり人間の崩壊じゃないですか。なんでやっぱりゲーム性が必要になってくるんですよ。自分でこれを「選択する」という行為が、食事するときとか友達と喋るときとかにゲーム性としてなんとなく入っている。それでようやく人が人として生きていけるというような、そういう時代になるのではないかと思ってます。

 

  ありがとうございます。プレイヤーが自分で考え、行為することによって人間の自発性が生まれてくるという、その一連のつながりに感銘を受けました。

 

小島 そもそもホモ・サピエンスは「考える人」じゃないですか。テクノロジーが生活の細部にまで行き届くと、人は自分で考えなくなってしまう。そこで「いかに考えるか」ということを考えるために必要なのが「遊び」という行為で、そのキーワードになるのが「ルーデンス」と。で、ルーデンスになるとやがては自分で創れる人にもなるので……というつながり、ですね。 

 

 自慢になるかは分からないけど、「ゲーム的リアリズム2.0」にはなぜか僕も紛れ込んでいて、監督の映像もプロジェクターで流れていたものを凝視しておりました。他の方の発表もめちゃくちゃ面白いので、時間がある人はフルで映像をどうぞ。……で、やっぱりここで言われている「未来」の要素が↓のツイートと関わってくると思うんですね。

 

 

『DEATH STRANDING』の最新トレイラーでサムが身につけている装置には「M2047 R4」と書かれていて、調べたら「Model of year 2047, revision 4」なんじゃないかと言われていました。

 

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 仮に2047年くらいの時期と仮定すると、上記の質問で語られた「将来」が指す時期(20年後や50年後)とも合致します。ここで語られていたこととデスストのテーマは無関係じゃないのでは、というところから推測していったのが実は前回の記事だったわけです。

 

  つまり、本作で「徹底した管理により、自発性が失われた状態」を表現しているのがあの「胎児」なんじゃないかということ。胎児というのは別に人間の赤ん坊に限った話ではなくて、おそらく初期のトレイラーから登場し続けている「蟹」や「鯨」も同じ状態であると僕は考えています。

 

 

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 陸に打ち上げられた「胎児」としての海洋生物。臍帯から養分を送り込まれるために自ら呼吸する必要もなく、生きて行く上で自発的な活動や選択をする必要もない。

 

youtu.be

 

 一転して海の世界では、今度は臍帯に繋がれたサムが縮こまっています。陸の蟹たちと同じように、彼は決して「死んでいない」が同時に生きてもいない。なぜなら彼は、「人間として終わっている」から。

 

 このゲームのタイトルが「Dead Stranding」でも「Live Stranding」でもない『Death Stranding』になったのって、つまりそういうことなんじゃないかなー、と。そういう妄想をしたのが前回の記事でした。

 

 

 さて、同じことだけ言ってても芸がない。

 ここで少しメタな視点を導入すると、我々プレイヤーは「遊び」として自発的にこのゲームと関わっていくことになります。ようするに、「サムを動かす」という行為自体が、この世界に失われた「自発性」や「絆」を回復する営みに直結するという……相変わらずものすごい構造のゲームになりそう。

 

 

 

 というかサム、「メタ男」じゃん。

 

 

 

 

紳士マン:ゴルサーの姫

↑邦題これでよくね?

 

 

 

他の映画じゃ見れないアクションや絵面がやっぱりあって、たとえば檻に入れられた人間がクレーンで積まれていくシーンなんかは「ああすごいなあ。バカだなあ」と感動できたし、カメラがグルングルン回るアクションシーンとか奇妙なカラフルさは相変わらず爽快だった。キングスマンだからこそできたことが本当にたくさん詰まっているので、とりあえず「観てほしい」と言いたい映画ではあるんです。続編もあってほしい。

 

ただ、展開よ。

前作がギリギリセーフな倫理のツボを突いてくれたのだとしたら、今回は普通にアウトである。

構造自体は面白いと思う。「マナーが人を作る」をモットーにしているキングスマンが、今作では「マナーを破った人間」を守らなきゃいけなくなるというジレンマ。エグジーが最後の最後で疑問を口にしてしまう点も含めて、自己矛盾に苦しむヒーローフェチにはたまらない設定が本作にはあったはずだ。

マナーを守らない人間はボコしてよい。そんな乱暴な理屈を素直に押し通した結果として、前作は「虐殺」と「紳士」という矛盾した二つの要素を両立させることができた。しかし今回はその辺が拗れる。

シリーズ物特有の「転覆」がエグジーに襲いかかる。全てのルールを守ることが正義なのか、あるいは、マナーだけ守ってればそれでいいのか。頑張ってもマナーを守れない人間が世の中にはいるとして、その人は見捨てられて当然と言えるのだろうか……さあどうする紳士達。

彼がこの問題をしっかりと認識し、最後なんらかの答えを出せれば、『ゴールデン・サークル』は間違いなく傑作となっただろう。けれど、本作はそこまでたどり着けていない。

というか、この作風でそれを描くのはほとんど不可能なんだと思う。

なぜって、キングスマンならではのあの「空間」はそもそも、命をどこまでも軽んじることで成立しているのだから。麻薬とかマナーとかそれらひっくるめたジレンマなんか、最初から「どうでもいい」という前提でこの世界は回っている。冒頭ではポピーの「Say goodbye to the Kingsman」の一言と共に、前作でそこそこ人気キャラであったはずの『JB』や『ロキシー』があっさり爆殺されてしまっていた。

 

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僕個人としてはこの時点で心を置いてきぼりにされてる。ぶっちゃけ、本作の印象は「好きなキャラが全員死んでどうでもいいやつだけ生き残った映画」である。そもそもヘッドショットや威風堂々を食らっても生き延びることが可能な世界観なんだから、誰が死んで誰が生きるとか本当にどうでもいい。死んだJBを別のわんこですげ替えたり、ハリーが別のわんこで記憶を取り戻したり、もう何がしたいんだよお前って感じ。

 

本来この「命の軽さ」はキングスマンの魅力であるはずだった。

 

マシュー・ヴォーンにこの辺を「うまくやってくれ」ということ自体が無理な話というか、そんな倫理的な駆け引きができる人にはそもそも前作だって作れないんだろうけど……でもそれじゃあやっぱり今回の敵の「問題提起」は無茶振りに等しい。

他のヒーロー物に例えるなら、バットマンが不真面目で適当な人間だったらジョーカーは悪役として成立しないだろという話。ポピーは別にキャラクターとして魅力がないわけではなくて、キングスマンとの対立が難しい人間だったというだけなのである。すごくもったいない。

 

端的に言って、本作は見終わった観客の背筋を伸ばすことに失敗している。「転覆」ゆえの後味があるわけでもないし、そもそもそんなものキングスマンには求めてない。小難しい他のヒーロー映画みたいな「問題」や「主張」を笑い飛ばし、まっすぐな「MMM」を推し進めることに成功したのが前作の傑作たる所以である。だから、本作が提示した問題だってもっとシンプルでいいはずなんだ。

 

いったいなぜ、続編はこんな風になっちゃうんだろう。

 

 

 

謎。

 

 

 

『DEATH STRANDING』のティザーを見すぎた男の末路

 

TO SEE A WORLD IN A GRAIN OF SAND.

AND A HEAVEN IN A WILD FLOWER.

HOLD INFINITY IN THE PALM OF YOUR HAND.

AND ETERNITY IN AN HOUR.

 

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 臍帯で繋がれた親子がいるとする。

 赤子の体は、「母体」から一方的に養分を吸い上げる。必要なものを吸収すると、今度は体内に溜まった老廃物を母親の体に排出し始める。

「臍の緒」などと言われているが、実際に臍で繋がっているのは赤子の方だけ。母親側の「臍」はというのは、本来彼女が別の母親と繋がっていた赤子だった、という過去の名残でしかない。あくまで生物的な「機能」としての話をすれば、親子の関係は常に不平等の中で成り立ってきた。親子が対等な存在となるためには、やはり子供が成長して新たな「親」となる必要がある。

 しかし、『DEATH STRANDING』における両者の関係性は少し違うらしい。

 これまでのティザー映像では、マッツ・ミケルセン扮する兵士や「BRIDGES」の死体処理班の男達も「臍」から赤子や髑髏兵たちと接続している。さらに、サムと呼ばれる本作の主人公は「食道」の管を通じて……直接赤ん坊と繋がっているらしい。

 もしかすると、両者を繋ぐのは従来の「親子」とは違う、対等な関係を成立させるための紐帯であるのかもしれない。大人から一方的に養分を送られ続けるだけでなく、あの赤子はなんらかの「対価」を支払っているのかもしれない。

 

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 たとえば、二本目のティザーの中で髑髏兵に指示を出す際のマッツの両眼には真っ黒な染みがあったのだが、赤ん坊の人形(あくまで人形)が片目を開いた後は消えて無くなっている(ちなみに片目を開く、という動作はデル・トロが赤ん坊と接続した瞬間にも見られた)。人形の足にはやはり黒いコードが巻きついていて、頭には無数の穴……何かと幾度となく接続した形跡が残されていた。あのシーンにおいて老廃物を排出したのは、一見すると「親」であるはずのマッツの側だった。

 

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 そして何より、最新のティザーで公開された主人公・サムの姿。「爆発」の光に包まれ、プレイアブル画面らしい海の底(魚達の体勢を見るとむしろ”反転した天井”と言えるかもしれないが)で、サムは身動きをせず横たわっている。普通に考えれば、あの状態で生き延びられるはずはない。呼吸はどうしているのか? 苦しくはないのか? ……単純過ぎて口にすることすら憚られるような疑問を、私たちは抱かずにいられない。

 

 しかし。

 

「赤ん坊とサムが対等な関係にある」と仮定した時、ここに歪な解釈を導くことができる。

 

 つまり、あの空間はサムを包み込む巨大な羊水で。

 

 赤ん坊からの栄養供給によって彼は生きながらえているのだ、という解釈。

 

 

 海底シーンにおいて、サムが抱きかかえていたはずの赤ん坊は姿を消し、代わりに彼の下腹部のあたりから長い長い「なわ」が天に向かって伸ばされている。その下腹部をよく見ると、黒い液体が煙のように排出され続けていることが分かるだろう。

 このシーンでの彼は、「老廃物を排出する胎児」の側なのだ。

 では、そもそも養分の供給源はどこか?

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 

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 やっぱこいつじゃね?

 

 

 赤ん坊からの補給によって彼は「再生」し、巨大なクレーターの穿たれた大地で再び活動を始める。今度は彼が親として、容器の中の赤ん坊に酸素を送り込みながら。

 仮に『DEATH STRANDING』がこのようにしてサムの死と再生を繰り返すのだとすれば、この作品では過去の「A Hideo Kojima Game」とは全く異なる世界が描かれるだろう。なぜなら、このゲームの中ではこれまでの小島監督作品で絶えず描かれ続けていた「世代交代」という要素が破綻してしまっている。

 メタルギアのファンであれば、これまでうんざりするほど「次の世代が~」的な台詞を聴き続けてきたはずだ。あの作品のスネーク達の関係は本当に理不尽で、呪いとしか言いようのない代物でもあったのだが、それでも親子の物語として成立していた。しかし、親子が対等な関係にある『デススト』の時空において、永遠に生きながらえるサムはそもそも次の世代にバトンを渡す必要がない。海底で胎児のように生きられるプレイヤーは、生存のためになんら努力する必要もなければ、誰かと協力する必要もない。もちろんゲームとしてなんらかの「駆け引き」が存在するのは間違いないのだろうけれど、従来のような「死なないために戦う」というルールからは完全に外れてしまっている。

 

 昨年のティザーが公開された後、小島秀夫監督はかなり意味深なツイートをしていた。

 

 

  不平等な「絆」というもの。あるいは、関係性の理不尽を正当化するための「愛」というもの。この作品は、こうした人間関係が「喪われる」という前提からスタートする。そして、その先でまだ見ぬ何かを掴もうとしているのだ。

 

一粒の砂に世界を、

一輪の鼻に天国を見いだすには、

君の手のひらで無限を握り、

この一瞬のうちに永遠をつかめ。 

 

 最初のティザーで真っ先に映し出されたのは、赤ん坊でもノーマン・リーダスでもなく陸地に打ち上げられた無数の蟹だった。あの蟹たちも、そして後に映し出される魚や鯨も、やはり腹のあたりから黒い臍帯で繋がれている。

 つまり、何かから養分を送り込まれている。

 サムにとっての「死の世界」を、反転した海の中を泳ぎ回っていた海洋生物たち。それが一転して、サムにとっての「生の世界」では地面の上で微動だにしない。両者は対の存在なのだ。陸に打ち上げられた生物たちが「生きて」いるようには到底見えないが、それらは決して「死んで」いない。この作品のタイトルが『LIVE STRANDING』でも『DEAD STRANDING』なく『DEATH STRANDING』であるのはなぜだろう……おそらく、そのヒントがここにある。

 

 思うに、この対立の特異点となるのが本作の「赤ん坊」、つまり本来の胎児だ。

 赤子は陸地に住まう生者なのか。

 それとも、水中に閉じこもる死者なのか……。

 

 

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 という妄想をしていたら一日が終わった。

 

 おしまい。