『赤い夢の迷宮』と児童書の思い出

突然ですが、僕、今21歳です。

同世代からちょっと年上くらいの人に聞きたいんですけど、「はやみねかおる」の本って読んでませんでしたか。

 

児童書に限らず、小さい頃に受け取ったコンテンツの影響はすごいなーと思う。たとえば、そもそも『虐殺器官』にハマったのなんでだろう、と考えてみた時に、小〜中学生の頃に読んでた『デモナータ』に似ていたからだと気付いた。デモナータって知らないですか。『ダレン・シャン』の作者(つまりはダレン・シャン)が書いた悪魔の話です。一応児童書ですが、一巻の序盤から主人公の家族が惨殺されます。

全体的にゴア描写が強烈だったのはもちろん、その様子を追う主人公たちの語り口が妙に落ち着き払っていたのもよく覚えている。『デモナータ』で精神をぐちょぐちょにされて育った僕は、数年後に伊藤計劃と出会い、むき出しの臓器に「ぬらぬら」というオノマトペを使うあの文体を見て懐かしい気持ちになった。こういう文脈がなかったら、ブログで劇殺器官をクソミソにいう人生など送っていなかったと思います。悪いのは全部ダレンだよ(そういや『ダレン・シャン』の映画も酷かったな)。

  

クソガキに毛が生えたような年齢なので、ノスタルジーに浸るのもまだ早い気はしている。こういう文脈は今も形成されている最中だろうし、たとえば伊藤計劃を噛まずに黒沢清にハマれたかって言われたら全く自信がない。正直、黒沢清に関して言えば今も好きなのかどうかが全然分からない。「何が面白いんだよあれ!」って言いながら毎回新作を見てる。

クリーピー』とか『散歩する侵略者』あたりはかなり楽しめたんだけど、『ダゲレオタイプの女』はマジで訳わかめでした。ちなみに、僕が好きなのは『蛇の道』とか『カリスマ』です。

 

さて。

なぜこんなふうにクダを巻いているのかと言えば、少年時代に「大人になったら読もう」と思っていた本をようやく読んだから——ずっと先延ばしにしていた儀式を正式に執り行うことができたからだ。

 

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勇嶺薫と書いて、「はやみねかおる」と読みます。「赤い夢」というのは彼がことあるごとに用いるフレーズなのですが、何を示しているのかは今もわからない。

 

児童書作家の中ではこの人が一番好きだったと記憶している。いや、正直にいうと現在進行形で好き。おかげさまで、成人した今も半年に一度ペースで「青い鳥文庫」をレジまで運んでいるし、10年後の僕もどうせ同じことをしているだろう。

10年後の僕はさ、どうせ恥ずかしいから「ブックカバーお願いします」とか言ってんだろ? お前な、好きな本くらいむき出しで買えよ。「娘に読み聞かせするんです」とか年相応の言い訳すりゃいいじゃん。えっ、娘いないの?

 

『都会のトム&ソーヤ』とかはね、さすがに今読むとアチャーってなることもなくはないんだけど、逆にすごーい! と思うこともたくさんある。VRとかARとかに関しては、この人の言う通りに進化してる面もあるんじゃないかな。子供向けであっても子供騙しではない、そういうのがいいよね。

そんなこんなで、十何冊目かの『怪盗クイーン』を読んでる時に僕は思い出した。大人向けのはやみね作品があったということ。「大人になったら読もう」と決めていたあの本に、そろそろ手を出してもいいんじゃないかと。

別に小説にはCEROレーティングなどないのだから、読みたくなったその時に読めばいいのにね。なんか違うって思ったんだろうな、小学生の感覚で。運がいいことに、僕はその時の決断を思い出すことができた。なので読んでみましたよ、『赤い夢の迷宮』を。

 

おもしろかったです。

 

 勝手にタイムカプセルにしていた本作を読んだ結果、感じたのはやっぱり変わらぬ懐かしさと好意、そして今との繋がりだった。そりゃ、大人向けだから普段の児童書とは比べ物にならないくらいダークだったりするのだけど、でも個人的にはやっぱり「はやみね作品」として楽しんでしまった。

ぶっちゃけ新鮮さはない。かつ、感想を言語化するのも難しい。作品の難解な構造がそうさせているわけではなくて、私的な思い入れが強すぎるせい。作中で「ああ、このキャラクター好きだな」と思った人は、だいたい過去作のキャラと似ていたりする。その上で、「でもそれがいい」とか言いたくなる。

だらだらと書いておきながらあれですけど、好きとか嫌いとかいう次元を通り越した「原体験」について、人はどのように語ればいいのでしょう? 基本的に、本作は客観視することができないのだ。人の書いた文章なのに、決して他人の思考回路なんかじゃなかった。

どういうことかというと、

 

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先日あげた小説。ここで並べちゃうのは流石におこがましいですけど、これも含めて、最近の自分は「夢(あるいは想像)と現実」について書くことが極端に多くなっていたんですね。実は。

自分がやりたいことを突き詰めた結果、勝手にそうなったのだと思っていた。でも、じゃあなんでこれがやりたいのか? というオリジンをたどった先に、「赤い夢」というフレーズがばっちりハマってきて、ビビる。本作に感じたのって、ようするにそういうことだったのだ。「色々あって、戻ってきました。ごめんなさい」という話。温かく迎え入れられた気がしなくもない話。

 

自分、どうして10年前からこんなに変わっていないのだろう。

 

これがすごく意外に感じた。なぜって、ここ数年僕が読んできた小説は、大抵「意識はつぎはぎだ」みたいな話ばっかりだし……記憶と体、それらが作り出す人間の心とやらも、結局は「テセウスの船」のようなものでしかない。体の細胞は6年で全部入れ替わるし、記憶に関しては捏造し放題。僕たちの思考は枠の中で行われていて、勘違いと偏見にまみれ、何か大切なものを見落とし続ける。そういうものだと思っている。

でも、今日僕が感じた実感はそれと少しずれてた。いうほど人間はばらけてなかったし、似たようなものをずるずる引きずって生き続けていた、という「ファクト」。もちろんこれは主観ですよ。どうせここで感じた一貫性も錯覚に等しいのでしょうけど、でも、それがどうしたっていうのさ。

 

久方ぶりに開き直った。

 

なんだかすごく心地よい。

 

この世界は、きっとどこかと繋がっている。そう書いたのははやみねかおるではなくて、太田光の『マボロシの鳥』か。案外、自分の本音は「好み」と真逆のところにあるのかもしれない。不思議ですね。