Where is my mind?

フィンチャーが流転した。『マインドハンター』というドラマシリーズの感想です。

フィンチャー作品全般のネタバレがてんこ盛りなので、色々気をつけてください。

 

「主人公が大きな力に振り回される話」と書けば、いつものデヴィット・フィンチャー作品かもしれない。とある人間(あるいはその人をめぐって起きる諸々の社会現象)に直面した結果、どうすることもできずに振り回される誰かについての物語。大雑把に言ってしまえば、彼の映画はだいたいいつもそんな感じ。

その「誰か」というのは大抵ひどく平凡な存在でもある。以前『ファイト・クラブ』のHonest Trailerを見た時、主人公の苦悩を「先進国の贅沢な悩み」とバッサリ切り捨ててたのがすごく笑えた。

 

www.youtube.com

 

確かにその通りなんだけど、あの映画のエドワード・ノートンは圧倒的に平凡な存在である必要があった。なぜなら、フィンチャー作品の主人公というのは僕らそのもの……タイラー・ダーデンというカリスマに人生をかき乱されるのは、自分と同じくらいの立場にいる人間でなければならない。

じゃあ、僕たちは無力で無様な自分自身の様子を見たくて映画を観るのかと言えば、もちろんそれも違う。見たいのはむしろ、振り回す側にある圧倒的な環境の方。逆らいがたい何かと化した人間や現象、あるいはフェイスブックがド派手に荒れ狂う様だ。少なくとも僕は、タイラー・ダーデンアメイジング・エイミーの姿を見て、「こいつは敵わねえや」と笑うためにフィンチャーの映画を見ている。絶対的で逆らえないエネルギーを演出として活用した結果、映画として毎回強烈な印象を焼き付けてくれるわけだ。

  

従来のフィンチャー作品だと、現象の渦中にいる人間、つまり現象をコントロールする「演出家」に当たるのは一人のカリスマ的存在であることが多かった。もちろん中には『ゲーム』みたいな例外もあるし、『ゾディアック』なんかは厳密に「個人」と言えるのか難しいところがあるんだけど(その意味で今回の作品は『ゾディアック』にすごく近いと思う)、フィンチャー作品はやっぱり「強烈な個人」の印象が強い。

『マインドハンター』が普段と決定的に異なるのはこの部分だ。本作には複数の殺人鬼が登場する。シリアルキラーという言葉がなかった時代の、猟奇的な殺人鬼たち。ドラマシリーズの尺を使って、この作品は「現象」の所在を複数人に分散させた。つまり、魅力的な個体(キャラクター)であることをやめて、より抽象的な概念に近づいてきたということになる。

けれど、そうした殺人鬼ひとりひとりが本作の演出家なのかと言えば、それもまた違う。この作品において、殺人鬼たちはむしろ『被害者』として扱われている。演出家というよりは演出そのもの、『セブン』でいうならジョン・ドゥに殺された「死体」の側として、エドモンド・ケンパーたちは登場した。

彼らは望んで演出家になったのではなく、演出せざるを得ない状況に追いやられた。プロファイリングの手法を確立する上で、主人公は彼らをそんな風に捉えていく。今回の「シークエンス・キラー」は、状況に導かれて殺人を行った生贄の役割を担っている。ホールデン・フォードという男は、ケンパーたちの行為を狂気として切り離したりはしない。だから、社会に見放された生贄としてその「責任」の箍を外し、普通の人間として心理を理解しようと努めていった。

どのような背景を持って、殺人やレイプへと駆り立てられるか。衝動的なものか、計画的なものか、罪悪感はあるか、等々。彼が学んでいくのは、ようするにこの作品の「演出技法」そのものだったりする。僕たちは普通の人間だ。「やべーやつ」の心理なんて分かるはずがない。このドラマの主人公は、そうやって犯罪者から自分を切り離す行為を、切断処理をやめてしまうのだ。

「やめる」こと自体は以前のフィンチャー作品でもやっていたことでもあった。『セブン』や『ゴーン・ガール』のラストなんかは、普通の人間であるはずの主人公が、抵抗を感じつつも狂気に加担する様を描いている。けれど、具体的な誰かに手を引かれたわけでもなく自ら演出家になって行ったのは本作が初めてなんじゃないかな。

ドラマの終盤では、この作品の演出家はホールデン自身であることが明らかになっていった。気がつけば、彼は犯罪者との対話を劇として捉え、その場の登場人物を「操る」すべを身につけている。それなのに、シーズン1の最後の最後まで、当人はそれを自覚することができていなかった。

本当に恐ろしいのはその無自覚さであり、ある種の無責任さだ。ホールデンは確かにこのドラマの演出家として機能し始めていた。僕らはそこに静かな快感を覚えこそしたものの、かと言って彼にタイラーのようなカリスマ性を見出してはいない。基本的に、ホールデンは自分の「直感に従い」、状況に対処を重ねて行っただけである。明確な悪意を持っていたわけでも、自己破壊をしようとしたわけではないし、ましてや社会を脅かそうとする意図なんかどこにもない。

基本的に彼は善人だ。だから、こんな風に問うことができる。彼にいったい何の責任があるというのだろう? と。シリアルキラーに課された責任にすら無頓着なホールデンが、自分自身の責任に気づくのはより一層難しい。実際のドラマの上では、むしろ彼は積極的に責任を背負い込もうとしていた節すらある。"I made the decision on my own"とかね。

ホールデン・フォードという男は、人間の責任というものにひどく興味がないのだ。彼はすでに、人の心が環境に左右されることを知っている。おぞましい連続殺人を犯して行ったシリアルキラーたちが、捉えようによっては「普通の人間」であるということも。

 

「君がスペックに使った言葉はFBIの品位をおとしめる」

「あなたは"クズ"と……ほらね」

 

みんな同じ人間で、みんな正常だし、みんな狂うことができる。

『マインドハンター』という作品は、単純に「現象」の渦に振り回される被害者ではなく、また渦を制御する加害者でもなく、とめどない渦の「一部」として人間を扱う。根本的なところで無力ではあるが、全く力がないわけじゃない。そんな宙ぶらりんな状態で、単純な狂言回しとも言えない立場をふらつくだけ。そこから脱する手段はない。

そんな世界の中で、果たして人間に責任を課すことなどできるのか? 

これは「責任」についての物語であると僕は思う。『マインドハンター』というドラマは、「自主性」という重要な因子を欠いた、空虚な責任を追求する物語だ。