『DEATH STRANDING』のティザーを見すぎた男の末路

 

TO SEE A WORLD IN A GRAIN OF SAND.

AND A HEAVEN IN A WILD FLOWER.

HOLD INFINITY IN THE PALM OF YOUR HAND.

AND ETERNITY IN AN HOUR.

 

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 臍帯で繋がれた親子がいるとする。

 赤子の体は、「母体」から一方的に養分を吸い上げる。必要なものを吸収すると、今度は体内に溜まった老廃物を母親の体に排出し始める。

「臍の緒」などと言われているが、実際に臍で繋がっているのは赤子の方だけ。母親側の「臍」はというのは、本来彼女が別の母親と繋がっていた赤子だった、という過去の名残でしかない。あくまで生物的な「機能」としての話をすれば、親子の関係は常に不平等の中で成り立ってきた。親子が対等な存在となるためには、やはり子供が成長して新たな「親」となる必要がある。

 しかし、『DEATH STRANDING』における両者の関係性は少し違うらしい。

 これまでのティザー映像では、マッツ・ミケルセン扮する兵士や「BRIDGES」の死体処理班の男達も「臍」から赤子や髑髏兵たちと接続している。さらに、サムと呼ばれる本作の主人公は「食道」の管を通じて……直接赤ん坊と繋がっているらしい。

 もしかすると、両者を繋ぐのは従来の「親子」とは違う、対等な関係を成立させるための紐帯であるのかもしれない。大人から一方的に養分を送られ続けるだけでなく、あの赤子はなんらかの「対価」を支払っているのかもしれない。

 

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 たとえば、二本目のティザーの中で髑髏兵に指示を出す際のマッツの両眼には真っ黒な染みがあったのだが、赤ん坊の人形(あくまで人形)が片目を開いた後は消えて無くなっている(ちなみに片目を開く、という動作はデル・トロが赤ん坊と接続した瞬間にも見られた)。人形の足にはやはり黒いコードが巻きついていて、頭には無数の穴……何かと幾度となく接続した形跡が残されていた。あのシーンにおいて老廃物を排出したのは、一見すると「親」であるはずのマッツの側だった。

 

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 そして何より、最新のティザーで公開された主人公・サムの姿。「爆発」の光に包まれ、プレイアブル画面らしい海の底(魚達の体勢を見るとむしろ”反転した天井”と言えるかもしれないが)で、サムは身動きをせず横たわっている。普通に考えれば、あの状態で生き延びられるはずはない。呼吸はどうしているのか? 苦しくはないのか? ……単純過ぎて口にすることすら憚られるような疑問を、私たちは抱かずにいられない。

 

 しかし。

 

「赤ん坊とサムが対等な関係にある」と仮定した時、ここに歪な解釈を導くことができる。

 

 つまり、あの空間はサムを包み込む巨大な羊水で。

 

 赤ん坊からの栄養供給によって彼は生きながらえているのだ、という解釈。

 

 

 海底シーンにおいて、サムが抱きかかえていたはずの赤ん坊は姿を消し、代わりに彼の下腹部のあたりから長い長い「なわ」が天に向かって伸ばされている。その下腹部をよく見ると、黒い液体が煙のように排出され続けていることが分かるだろう。

 このシーンでの彼は、「老廃物を排出する胎児」の側なのだ。

 では、そもそも養分の供給源はどこか?

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 

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 やっぱこいつじゃね?

 

 

 赤ん坊からの補給によって彼は「再生」し、巨大なクレーターの穿たれた大地で再び活動を始める。今度は彼が親として、容器の中の赤ん坊に酸素を送り込みながら。

 仮に『DEATH STRANDING』がこのようにしてサムの死と再生を繰り返すのだとすれば、この作品では過去の「A Hideo Kojima Game」とは全く異なる世界が描かれるだろう。なぜなら、このゲームの中ではこれまでの小島監督作品で絶えず描かれ続けていた「世代交代」という要素が破綻してしまっている。

 メタルギアのファンであれば、これまでうんざりするほど「次の世代が~」的な台詞を聴き続けてきたはずだ。あの作品のスネーク達の関係は本当に理不尽で、呪いとしか言いようのない代物でもあったのだが、それでも親子の物語として成立していた。しかし、親子が対等な関係にある『デススト』の時空において、永遠に生きながらえるサムはそもそも次の世代にバトンを渡す必要がない。海底で胎児のように生きられるプレイヤーは、生存のためになんら努力する必要もなければ、誰かと協力する必要もない。もちろんゲームとしてなんらかの「駆け引き」が存在するのは間違いないのだろうけれど、従来のような「死なないために戦う」というルールからは完全に外れてしまっている。

 

 昨年のティザーが公開された後、小島秀夫監督はかなり意味深なツイートをしていた。

 

 

  不平等な「絆」というもの。あるいは、関係性の理不尽を正当化するための「愛」というもの。この作品は、こうした人間関係が「喪われる」という前提からスタートする。そして、その先でまだ見ぬ何かを掴もうとしているのだ。

 

一粒の砂に世界を、

一輪の鼻に天国を見いだすには、

君の手のひらで無限を握り、

この一瞬のうちに永遠をつかめ。 

 

 最初のティザーで真っ先に映し出されたのは、赤ん坊でもノーマン・リーダスでもなく陸地に打ち上げられた無数の蟹だった。あの蟹たちも、そして後に映し出される魚や鯨も、やはり腹のあたりから黒い臍帯で繋がれている。

 つまり、何かから養分を送り込まれている。

 サムにとっての「死の世界」を、反転した海の中を泳ぎ回っていた海洋生物たち。それが一転して、サムにとっての「生の世界」では地面の上で微動だにしない。両者は対の存在なのだ。陸に打ち上げられた生物たちが「生きて」いるようには到底見えないが、それらは決して「死んで」いない。この作品のタイトルが『LIVE STRANDING』でも『DEAD STRANDING』なく『DEATH STRANDING』であるのはなぜだろう……おそらく、そのヒントがここにある。

 

 思うに、この対立の特異点となるのが本作の「赤ん坊」、つまり本来の胎児だ。

 赤子は陸地に住まう生者なのか。

 それとも、水中に閉じこもる死者なのか……。

 

 

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 という妄想をしていたら一日が終わった。

 

 おしまい。