紳士マン:ゴルサーの姫

↑邦題これでよくね?

 

 

 

他の映画じゃ見れないアクションや絵面がやっぱりあって、たとえば檻に入れられた人間がクレーンで積まれていくシーンなんかは「ああすごいなあ。バカだなあ」と感動できたし、カメラがグルングルン回るアクションシーンとか奇妙なカラフルさは相変わらず爽快だった。キングスマンだからこそできたことが本当にたくさん詰まっているので、とりあえず「観てほしい」と言いたい映画ではあるんです。続編もあってほしい。

 

ただ、展開よ。

前作がギリギリセーフな倫理のツボを突いてくれたのだとしたら、今回は普通にアウトである。

構造自体は面白いと思う。「マナーが人を作る」をモットーにしているキングスマンが、今作では「マナーを破った人間」を守らなきゃいけなくなるというジレンマ。エグジーが最後の最後で疑問を口にしてしまう点も含めて、自己矛盾に苦しむヒーローフェチにはたまらない設定が本作にはあったはずだ。

マナーを守らない人間はボコしてよい。そんな乱暴な理屈を素直に押し通した結果として、前作は「虐殺」と「紳士」という矛盾した二つの要素を両立させることができた。しかし今回はその辺が拗れる。

シリーズ物特有の「転覆」がエグジーに襲いかかる。全てのルールを守ることが正義なのか、あるいは、マナーだけ守ってればそれでいいのか。頑張ってもマナーを守れない人間が世の中にはいるとして、その人は見捨てられて当然と言えるのだろうか……さあどうする紳士達。

彼がこの問題をしっかりと認識し、最後なんらかの答えを出せれば、『ゴールデン・サークル』は間違いなく傑作となっただろう。けれど、本作はそこまでたどり着けていない。

というか、この作風でそれを描くのはほとんど不可能なんだと思う。

なぜって、キングスマンならではのあの「空間」はそもそも、命をどこまでも軽んじることで成立しているのだから。麻薬とかマナーとかそれらひっくるめたジレンマなんか、最初から「どうでもいい」という前提でこの世界は回っている。冒頭ではポピーの「Say goodbye to the Kingsman」の一言と共に、前作でそこそこ人気キャラであったはずの『JB』や『ロキシー』があっさり爆殺されてしまっていた。

 

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僕個人としてはこの時点で心を置いてきぼりにされてる。ぶっちゃけ、本作の印象は「好きなキャラが全員死んでどうでもいいやつだけ生き残った映画」である。そもそもヘッドショットや威風堂々を食らっても生き延びることが可能な世界観なんだから、誰が死んで誰が生きるとか本当にどうでもいい。死んだJBを別のわんこですげ替えたり、ハリーが別のわんこで記憶を取り戻したり、もう何がしたいんだよお前って感じ。

 

本来この「命の軽さ」はキングスマンの魅力であるはずだった。

 

マシュー・ヴォーンにこの辺を「うまくやってくれ」ということ自体が無理な話というか、そんな倫理的な駆け引きができる人にはそもそも前作だって作れないんだろうけど……でもそれじゃあやっぱり今回の敵の「問題提起」は無茶振りに等しい。

他のヒーロー物に例えるなら、バットマンが不真面目で適当な人間だったらジョーカーは悪役として成立しないだろという話。ポピーは別にキャラクターとして魅力がないわけではなくて、キングスマンとの対立が難しい人間だったというだけなのである。すごくもったいない。

 

端的に言って、本作は見終わった観客の背筋を伸ばすことに失敗している。「転覆」ゆえの後味があるわけでもないし、そもそもそんなものキングスマンには求めてない。小難しい他のヒーロー映画みたいな「問題」や「主張」を笑い飛ばし、まっすぐな「MMM」を推し進めることに成功したのが前作の傑作たる所以である。だから、本作が提示した問題だってもっとシンプルでいいはずなんだ。

 

いったいなぜ、続編はこんな風になっちゃうんだろう。

 

 

 

謎。