デススト妄想2.0

 前回の続き。というかほとんど同じ内容の繰り返しなんですけど。

 一つだけ上げ忘れていたものがありました。小島監督ドナルド・トランプのせいで参加できなかったという伝説の学会、「ゲーム的リアリズム2.0」。

 そこに映像で出演していた監督の映像。

 

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 以下、限りなく書き起こしに近いまとめです。

  「近い将来ほとんどのことはAIがやってくれるようになる。人間の自発的行為は『遊び』しか残らないのではないか」という小島さんの発言は非常に印象的でした。現状のゲームに関する議論といえば、「ゲームは娯楽かそれ以上か」だとか、「ゲームはアートかそうじゃないか」というようなものばかりが散見されますが、それらと比べてみても小島さんの見方はかなり先を行かれているように感じます。そこで最後の質問なのですが、「ゲームがこの先どのように進化していくのか?」「20年後や50年後を考えた時にどうなっているのか?」「ゲームは私たちの世界に対する意識や認識を変えてくれる力があるのか?」……あるいは、「私たちはゲームを通して自由になれるのか?」ということについてお話いただけますでしょうか。

 

小島 ええと、まず将来的には健康管理とか趣味嗜好とか、なんなら会話の内容や表情さえも全部AIが最適化してコミュニケーションを簡単にしてくれると思うんですよ。たとえば喉が渇いたら、その「喉が渇いた」という意志を口にする前に水が出てきて、しかもその水がどこの水かっていうのも全てリサーチ済み。そういう時代はもう間違いなく来ますよね。自分のビッグデータさえあれば、それに伴い何一つ困ることなく生きていけると思うんですけど、ただやっぱり「遊び」となるとそれじゃダメなんです。まず「自由度」があって、その中で自分が「選択」していくわけじゃないですか。「遊ばされる」っていうのは遊びじゃなくて、「自分で楽しむ」行為こそが遊びなんで。だからいろんなものを提供されて、その中で工夫していく必要があるわけですよね。で、その「工夫」こそが最終的に自分を自分たらしめる存在になるというか、かゆいところには全部手がとどく時代ですけど、でも「自分でかゆいところを探す」という自発的行為の余白が未来では意図的に残されると思うんですね。そういう遊びがなくなっていくと、もう人間として終わってしまいます。

 で、これは別に「ゲーム」という括りじゃないと思うんですね。「今からゲームを遊ぶぞ」って言って画面に向かうような従来のゲームもきっと残っているでしょうけど、恐らくそれだけではないと。たとえば、レストランでメニューを「選ぶ」ということが遊びとして残されていたりするんです。というかこれがないともう、何もすることがないんですよ。自分に足りない栄養素が全部わかっていて、どの店に行くかもあらかじめ決まっている。で、店に入ると最適なウェイターが待ち構えていて、最適な表情を浮かべながら一番いい食事を出してくれる。自分は出て来たものを食べるだけ、っていう。食べ方まで教えてもらっちゃったりして……で、それはやっぱり人間の崩壊じゃないですか。なんでやっぱりゲーム性が必要になってくるんですよ。自分でこれを「選択する」という行為が、食事するときとか友達と喋るときとかにゲーム性としてなんとなく入っている。それでようやく人が人として生きていけるというような、そういう時代になるのではないかと思ってます。

 

  ありがとうございます。プレイヤーが自分で考え、行為することによって人間の自発性が生まれてくるという、その一連のつながりに感銘を受けました。

 

小島 そもそもホモ・サピエンスは「考える人」じゃないですか。テクノロジーが生活の細部にまで行き届くと、人は自分で考えなくなってしまう。そこで「いかに考えるか」ということを考えるために必要なのが「遊び」という行為で、そのキーワードになるのが「ルーデンス」と。で、ルーデンスになるとやがては自分で創れる人にもなるので……というつながり、ですね。 

 

 自慢になるかは分からないけど、「ゲーム的リアリズム2.0」にはなぜか僕も紛れ込んでいて、監督の映像もプロジェクターで流れていたものを凝視しておりました。他の方の発表もめちゃくちゃ面白いので、時間がある人はフルで映像をどうぞ。……で、やっぱりここで言われている「未来」の要素が↓のツイートと関わってくると思うんですね。

 

 

『DEATH STRANDING』の最新トレイラーでサムが身につけている装置には「M2047 R4」と書かれていて、調べたら「Model of year 2047, revision 4」なんじゃないかと言われていました。

 

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 仮に2047年くらいの時期と仮定すると、上記の質問で語られた「将来」が指す時期(20年後や50年後)とも合致します。ここで語られていたこととデスストのテーマは無関係じゃないのでは、というところから推測していったのが実は前回の記事だったわけです。

 

  つまり、本作で「徹底した管理により、自発性が失われた状態」を表現しているのがあの「胎児」なんじゃないかということ。胎児というのは別に人間の赤ん坊に限った話ではなくて、おそらく初期のトレイラーから登場し続けている「蟹」や「鯨」も同じ状態であると僕は考えています。

 

 

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 陸に打ち上げられた「胎児」としての海洋生物。臍帯から養分を送り込まれるために自ら呼吸する必要もなく、生きて行く上で自発的な活動や選択をする必要もない。

 

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 一転して海の世界では、今度は臍帯に繋がれたサムが縮こまっています。陸の蟹たちと同じように、彼は決して「死んでいない」が同時に生きてもいない。なぜなら彼は、「人間として終わっている」から。

 

 このゲームのタイトルが「Dead Stranding」でも「Live Stranding」でもない『Death Stranding』になったのって、つまりそういうことなんじゃないかなー、と。そういう妄想をしたのが前回の記事でした。

 

 

 さて、同じことだけ言ってても芸がない。

 ここで少しメタな視点を導入すると、我々プレイヤーは「遊び」として自発的にこのゲームと関わっていくことになります。ようするに、「サムを動かす」という行為自体が、この世界に失われた「自発性」や「絆」を回復する営みに直結するという……相変わらずものすごい構造のゲームになりそう。

 

 

 

 というかサム、「メタ男」じゃん。