「多様性」について

 最近、「支持したいけど好きじゃない」と思うような映画がすごく多い。今こんな風に書くと「『シェイプ・オブ・ウォーター』の話か」と思われるかもしれないけれど、まったくその通りです。

 

 あの映画がアカデミー作品賞を取ったこと自体はすごく嬉しい。それに、『ブラックパンサー』とか『ワンダーウーマン』とか、ギレルモ・デル・トロ監督の言う「The Others」に括られた人々が堂々と映画製作に参加できるようになってきたのはもちろん大事なことだと思う。できるなら僕も仲間に入れてもらいたいものだ……実写「メタルギア」の脚本チームとかさ(冗談ですよ)。

 ただ、今挙げた3作品を劇場で観てみた感想として、『ワンダーウーマン』以外にはあんまりノれなかった自分がいる。いや、どれもすごいとは思いますよ? こうした映画に文句を言うこと自体が贅沢なことなのかもしれないけど、でもなんだかなぁって。

 

 率直な話、二つの疑問が湧いてきた。

 

・最近の映画は本当にThe Othersを描けているのか

・これまでの映画はThe Othersを描けていなかったのか

 

 どうなんでしょう。

 これまで挙げてきた映画と逆のパターンで、「支持できないけど好き」という映画も去年やっていた。『ゴースト・イン・ザ・シェル』って名前なんですけど、みなさん覚えてますか。

 草薙素子役をスカーレット・ヨハンソンが演じてしまったということで、「ホワイトウォッシュ」とクソミソに叩かれていたらしい映画。正直映画自体が好きというわけではないのだけど、素子役のスカーレット・ヨハンソンはかなりハマっていたよと僕は訴えたい。小声で。

 アメリカでは役者を変えろという署名が十万人以上集まってしまったらしい。日本にいる自分にもその「意義」は何となく分かる(分かる、と言っちゃうのも少々傲慢かもしれないが)。

 ただ、仮にこの署名が功を奏したとしても、個人的な旨味はあんまりなかったりする。この役をアジア人が演じるにしたって、どうせ「日本ではない国の人」が、「英語」で演技をするんだから。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』を見た日本人が気にするのは、どう考えても役者より言語の方だ。登場人物が全員英語でペラペラと喋る中、ビートたけしだけが日本語を使うあの謎の空間。しかも音声自体が聞き取りにくい形に録音されていて、結局英語字幕読んだほうが分かりやすいというおまけ付きだ。スタッフに日本語話者がほとんどいなかったんだろうな、っていうことがすごくよく分かってしまう。残念。

  でも、アメリカの人々は「言語」にそこまで困ってないらしく、この問題はあんまり指摘されることがない。ぶっちゃけ世界的にはかなり問題だと思うんですけどね……英語による世界観の「浄化」。話題の『ブラックパンサー』にしてみても、ワカンダの人々はほとんど英語で喋り倒していた。言語を切り替えるタイミングがよくわからない(気まぐれ)、というのは却って「バイリンガルあるある」としてリアルなのかもしれない。でも、だからなんだよ。制作上の都合の良し悪しで決めちゃっているのだとすれば、それは他のマイノリティ差別と大差ないんじゃないですか。

 

 …………(頭の中のスカルフェイスが暴れ中)。

 

 話は少し変わるが、最近望月新一さんのブログにハマっている。「ABC予想」で有名な数学者のあの人です。

 長年のアメリカの滞在経験を通して、彼は欧米人の「態度」についてこんなことを書いていた。

 

多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます。

https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329/diary/201711140000/

 

 あるいは、英語という言語に関する言及も。

 

子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。

https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329/diary/201711210000/

 

 ……まあ、いろいろ過剰に映るのは事実。でもこれ、個人的にすげえよく分かるんだよね。

 一口に帰国子女といっても、この「アレルギー」を感じる人と感じない人で結構割れる。一例として、ここで僕個人の海外経験の話をしようかなと思ったんだけど、今は就活中なのでやめておきます(ぶっちゃけ、望月氏のこの文章を読みながら不意に涙が溢れたくらいに強いアレルギー体質だった)。

  このブログで望月さんが書かれているのは、異質なもの同士の交流にはむしろ「壁」が必要だということだ。人間の「個性」と呼ばれる部分  映画に求められるような複雑な人間性を描く上では、他者を自分から「分化」させることが必要不可欠だったりする。

 人の思考は枠組みの中で行われている。僕たちは本来、定型(フレーム)なしにものを捉えることができない生き物だ。

 そんな人間が、異文化交流において一切の枠組みを、「壁」を取り払ったらどうなるだろう。正常な思考能力は失われ、日本人も韓国人も「アジア人」と一緒くたにされる。むしろ、「もっとアジア人の自覚を持て」なんて言われちゃう。

 映画で言えば、それぞれのキャラクターの「解像度」が低くなり、その造形は単純化される。悲しいかな、ここには複雑な人間性の理解なんてあり得ない。他者を理解しようとする眼差しは、むしろ善意によって作られた「壁」によって成り立っている。本当に異質な文化との交流を成立させたいなら、却って「立ち入ってはならない一線」の設定が必要不可欠なのだ。

 

 で、このような現実と比較すると、ぶっちゃけ最近のアメリカ映画で描かれている「多様性」というのはわりかし特殊なものだとおもう。僕が求めている「人間性」とは程遠い部分だし、世界全体に響くテーマではない気がする。

 一応言っとくけど、あの大統領を擁護する気なんかないですよ? ただ、望月さんも言うようにアメリカという国が壁に「飢えて」いるという状況自体は事実。そして、ここ最近の「正しい」映画たちは、ある意味で否応無く「壁」を要求してしまう人間心理を徹底的に「排除」しようとしている。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』は多くのThe Othersを受け入れているようで、唯一、心の弱い大人に対して壁を作っている。映画のラストで、守護聖人としての半魚人に首を切られてしまう男の描写。自業自得とはいえ、彼は本当に報われないんだよな。残念だけど、これが正しい成り行きらしい。

 裏を返すと、この映画の「被差別者」に当たる人たちは何一つ間違った行動を取らない。この映画が救うのは一貫して「正しい者」だけだ。悪いことじゃないんだけど、正直息苦しさを感じなくもない。弱者はみんな、心が強いんですか? ここまで勧善懲悪突き詰めちゃって大丈夫なんですか? 

 多様性を描こうとするドラマは、却って人種ごとの役割を単純化し、そのドラマを単調にする。黒人女性が気前のいいおばさんと描かれるように、「白人の男性」は悪役の立場から逃れられない。

 その上で、ストリックランドという人間がひたすら苦しみ抜いて死んでいくあの映画を見終えた時  頭では「正しい」と理解しつつも、僕は感動することができなかった。だからこんな文章を、長々と書いてしまったりした。

 あの国に住まう多くに人にとって、この映画は重要な存在となれるかもしれない。けれど、『シェイプ・オブ・ウォーター』が救ったのはかなり具体的で、かつ「限定」された人々だと僕は思う。結局はアメリカ映画なんだから、そこに日本のThe Othersの席がないというのはある意味当たり前な話かもしれない。

 

 でも、そこを超えて欲しいというのが個人的な願いだったんだよな……。