【2018夏】平成の最後の夏の映画の感想の話

 約一週間で映画館に5回も通ってしまった。どうかしてるぜ。せっかくなので全部感想を残しときます。文章は「観た順」ではなく「個人的に面白かった順」です。ただし、基本的に全部面白いので誤差みたいなものです。『ウィンド・リバー』が良すぎたのが悪い。

 感想書いた日がまちまちなので文体とかもバラバラです。観た映画が増えるごとに無言で追記するよ。

 

・『ウィンド・リバー

 この夏一番の冬映画(春)。

 

 よく、「映画は映像で語るべきだ」という話を目にする。映画と小説は違うのだから、重要な事柄は役者に言葉で語らせるんじゃなくて、はっきりと画面に映すべきなのだ、と。

 しかし、「見せない/見えない」ことも映像の一部である。たとえば、ホラー映画は恐怖の対象をはっきりと「見せない」ことでより一層怖くなるし、対象の姿が見えすぎると却って萎えてしまうこともある。

 ホラー映画とは少し違うが、デビット・フィンチャー監督のドラマシリーズである『マインド・ハンター』なんかは、シリアルキラーの話であるにも関わらず「死体」がほとんど画面に登場しない。その惨状は殺人鬼自身の口から朗朗と語られるのだ。自分が被害者をどのように追い詰め、そしてどのように殺し、死体をどのように「装飾」したのか――異常殺人の様子は映像ではなく言葉で示される。『ファイト・クラブ』のサブリミナル演出や『SE7EN』の「箱の中身はなんじゃらホイ(悪夢)」からも分かる通り、あのフィンチャーも実は「見せ過ぎない」ことを武器にする映像作家だった。

 本作『ウィンド・リバー』もまた、ある意味では見えない映像の傑作だ。テイラー・シェリダン監督が作品の舞台として選んだ大雪原は、その広大さ故に視覚的な情報が存在しない。死体を発見するのも一苦労だし、唯一の手がかりである足跡もわずかな時間で消失してしまう。

 しかし、上記の作品群と異なるのはそれが「舞台設定」であって「演出」ではないという点だ。それは作り手の意図を超えた「現実」そのものの問題であり、作中の登場人物たちも嫌という程認識している極限状態なのだ。

 本作の登場人物は今時珍しいくらい饒舌だった。「ウィンド・リバー」に住まう人々には、物事を言葉にしようという意識がある。なぜなら、被害者である「彼女」が走った距離の重みは、言語化することでしか伝わらない。『マインド・ハンター』の殺人鬼とは対象的に、本作は「被害者」や遺族の視点から、虚無を駆り立てる雪原を情緒豊かな言葉によって埋め尽くそうとしている。

「現代」の話とは思えない切実さ。だからこそ、この夏一番突き刺さった雪国の映画。お願いだから、『ウィンド・リバー』を観に行って欲しい。『アベンジャーズ』と『ミッション・インポッシブル』で姿を消したジェレミー・レナー成分をたっぷり味わえますよ。観に行ってね♡

 

仮面ライダービルド

 夏休みといえばポケモンよりこれ派。『アマゾンズ』に結局行かなかったので特撮久々。

『劇場版ビルド』はアクションよりも「人ゴミ萌え」するよい映画だった。

 人ゴミ萌え、というのは読んで字のごとく「大量の人間がぞろぞろ動いている姿(俯瞰視点)に興奮する」という僕の体質です。最近だと『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』でルーナが生存者に紛れてぞろぞろ歩いて行くラストとか、それこそ『アマゾンズ』のシーズン1ラストでぞろぞろするシーンとか、あの独特のキモさがグッとくるじゃないですか。

  加えて今回は「人」の扱いが本当に「ゴミみたい」だったので(エキストラそれでいいのか、と思ったりもしたが)、別の面白さが加わっているようにも感じた。

「人がゴミのようだ」という比喩じゃなくて、「そもそも人はゴミだ」と言わんばかりのクソ大衆ムーブ。しかも洗脳が解けた後すら(いい意味で)後味悪い。ライダー衆愚である。

 で、その露骨さがビルドのヒロイズムを明確にしちゃうのだ。もともと「仮面ライダービルド」で描かれるヒーロー像は本当に素晴らしいよね。「ライダーとショッカーは本質的に等価」=「仮面ライダーは軍事兵器」というお約束の読み替えとか、「悪魔の科学者と呼ばれた男が思い描いた守護聖人像」=「桐生戦兎」=「仮面ライダービルド」という主人公の設定とか、なんかもうすごいのである。半ば強引に「正義のロマン」を見せつけてくるこの作品のあり方が僕は本当に大好きで、正直平成二期で一番推しているヒーローだったりする。勝利の法則にガンギマリだ。

  ファイズの一万人エキストラより僕はこっちの方が好きかもしれない。

 

・『ミッション:インポッシブル フォールアウト』

 イーサン・ハントよりトム・クルーズの方がやばいことで有名な一作。IMF工作員のイーサンは一度きりのHALO降下を見事成功させるが、トム・クルーズは俳優なので同じジャンプを後100回繰り返す。

 

 そういう仕事だ。

 

MGS3』の冒頭と同じあの「HALO降下」を実写で観れる、それ自体はもちろん眼福極まりない。しかしこの撮影、下手したら死ぬ。

 

 そういう仕事だ。

 

 HALO降下は数あるアクションシーンの一つに過ぎず、本作の中でトムは決死のアクションにノースタントで挑む。一つ一つの撮影が命がけであることは、たとえば車の助手席に座らされたショーン・ハリスの鬼気迫る表情を見れば分かるだろう。

「下手したら死ぬ」の連続を見ながら、観客はこの映画のあり方をメタ視点で捉え始める。この映画のプロデューサーが誰かは知らないが、間違いなくトム・クルーズに殺意を抱いているに違いない。本来ハリウッドセレブはここまで過激なスタントに挑戦してはならないのだから、金を払ってでもトムを事故死させようという「意思」を、僕たちは感じずにいられないのだ。

 

 しかし――ネタバレになってしまい申し訳ないが、エンドクレジットでは衝撃の事実が明らかになる。なんとこの映画のプロデューサー、トム・クルーズ自身なのだ。

 トムを殺そうとするのはトム自身。シャマランもびっくりのどんでん返しによって、この作品は「メタフィクション構造のサイコ・サスペンス」として歴史に名を残すことになるだろう。なったらウケるな。

 

・『オーシャンズ8』

 ケイト・ブランシェットがかっこよくて、エル・ファニングの姉がかわいい。

 そんな「あたりまえ体操」みたいな映画だけど、全部ちゃんと絵になるからずるい。おもろい。

『フォールアウト』とは対照的で、「弱みを見せる必要性」が全くない映画ですね。撮影はハードだったらしいけれど、決して命がけではないだろうし(比較対象が『フォールアウト』なのがおかしいんだけど)。

ウィンド・リバー』とは比べ物にならないほど視覚情報に恵まれているので、特に何かを指摘しておく必要はない。何もいうまい。ただ、次回作があればエマ・ワトソンを「クソみたいな金持ち役」とかで出して欲しいですね……。

 あと、ダコタ・ファニングの妹もカメオ出演してね。

 

・『ペンギン・ハイウェイ

 虐殺器官のエピローグを消滅させたプロデューサーが、また子供達の思い出から大切なものを消し去って行く映画。そんな風に捉えてしまう僕の認知が明らかに歪んでいるだけで、決してつまらない映画ではないと思う。

 

 

 ……という前提で。

 

 

 序盤も序盤、アオヤマくんが道路を突っ切った時に急停車する車から、一瞬間をおいて身を乗り出した女性が一言「こらーっ!」と叫ぶじゃん。原作の冒頭にあの車は出てこない。つまり、あの車はアニメの演出として出現した「演出カー」だ。もちろん、その出現自体は問題じゃない。

 でもちょっと、違和感ある。キャラクターの行動原理が「演出意図」以外に何もないアニメーションって、僕はそこまで好きじゃない。で、そう言ってしまうとこの映画の99%くらいが楽しめなくなってしまう。困った。

 良くも悪くも、ここまで整理整理整頓の行き届いた映像を久々に観た気がする。とにかく、白黒はっきりし続けた映画である。動きに迷いがない。キャラクターの口調も森見口調/その他口調がきっちり分かれていて、前者には俳優、後者には声優というキャスティングも含めてかなり露骨に感じた。これって原作通りなのか。原作はここまで明確にキャラを「差別化」していたのだろうか。

 もともと整理されていた原作をさらに整頓してしまった。そういう印象がある。ただ、そもそも森見登美彦原作のアニメ作品が面白い理由って、ウェットな人間ドラマを細部から排除している部分にあるのだから、動きの細部に「奥行き」なんてくだらないものを求める僕の方がナンセンスなのかもしれない。

 でも、『ペンギン・ハイウェイ』が本来持っているはずのツァイガルニク効果……ようするに「永遠の空白」じみた答えのなさ……に対してああいう「くっきり」した演出のスタイルは相性が悪い気がする。正直めちゃくちゃすっきり終わってしまった。後腐れがない。

 何が言いたいかと言うと、原作のエピローグをカットした後にいきなりゴリゴリのEGOISTが流れ始めるくらいの冒涜がないと俺はもう作品を「引きずりたい」気分にはなれない体になってしまったということだ。責任を取って欲しい。