【感想・考察もどき】『ジョーカー』への個人的見解と、危険視される作品の特徴

■個人的見解

かわいいは正義」という文言が嫌いだ。

というか、この手のオタクスラングは大抵妙にモヤっとする。ある特定のキャラクターを肯定する上で、その周囲にある「世界」や「思想」を小馬鹿にするタイプの物言い  「世の中そんな単純じゃねえ!」という怒りをひた隠しにしながら生きてきた。けれど、そんな日々とはもうおさらばだ。

悪いのは自分の狭量さだと言い聞かせて来たが、僕は今、「かわいいは正義」に対する最上級の反証を手に入れてしまった。

 ジョーカーである。

ホアキン・フェニックスの演じるジョーカーは、なんだかとてもかわいい。 

 

 ■ジョーカー可愛すぎ問題

かわいいは正義」はカルト思想だ。その言葉は即ち、ジョーカーを正義だと言うに等しい。あの映画を最後まで観た上で、アーサー=ジョーカーを愛おしいと思わない人間がいるのだろうか。いやたぶんいない。ジョーカーはかわいい。なら、彼は正義だ。いやそれはまずい。じゃあなんなんだ。

 

…………。

  

■以下、真面目な話

近頃、秀逸であるがゆえに「危険視」される作品が少なくない。たとえば、メインヒロインの「自殺」を描いて問題になったNetflixの『13の理由』。作品の影響を受けて実際に自殺者が現れてしまい、ほんの数週間前にヒロインの自殺シーンを公式が削除してしまった。ドラマ自体は続行する予定らしいけれど、あの象徴的なシーンが「消去」されること自体が現代的だと言えるのかもしれない。

というかまず、『ダークナイト』を模倣して映画館で殺人事件が起こったりしているわけだから、作品が人を殺し得るか? という問いの答えは常にイエスなのだろう。物語は人を殺す。とはいえ、現代の情報社会は作品が人に与える「影響」ごと可視化してしまうから、この問題を無視することも不可能となった。特定の映画作品を危険視する声は何年も前からあったはずだけど、今はよりセンシティブに接しなきゃいけないんだろうな……。

じゃあ、『ジョーカー』や『13の理由』どうして「危険」なのか。

こうした「危険視」の目が存在すること自体の是非はさておき、この手作品が有する共通点について考えてみたい。実を言うと、『ジョーカー』と『13の理由』のストーリーテリングはかなり似通った特徴を持つ。

以前、『13の理由』の物語描写についてこんなことを書いた。

 

自らの命を絶つほどのことをしたのだから、その人はきっと重大な「事件」に巻き込まれたのだ、と。そう思い込んだ結果として、僕たちはレイプや虐待のような「事件性」のある出来事ばかりに注目し、小さな出来事に目を向けなくなってしまう。

これは本当によくない考え方だ。全ての自殺者に、必ずしも大きな引き金があるとは考え難い。むしろ、「小さな理由」を少しずつ蓄積することによって、人の思考は少しずつ自死へと誘導されてしまう。

たとえるなら、それは格闘ゲームの「コンボ」のようなもの。現実世界で人を殺すのは、決して必殺技ではない「小ダメージの連続性」だ。日常のいろんな場所で、人は少しずつ「傷」を増やしていく。そのひとつひとつが些細なものであっても、休む間も無く悪い刺激を受け続けると、やがてひとつひとつのダメージが「繋がっている」ように錯覚してしまう。

本当に人を殺めるのは、この連続性の延長上にある「八方塞がり」の感覚なのだ。苦痛はこの先も繰り返される。現実はもう対処不能だ……そう思えて初めて、人は自らの命を断とうとする。

【感想・考察もどき】『13の理由』はいかにして自殺を描いたのか(シーズン1) - あうとさいど。

 

ある登場人物の悲劇を多面的に描く、そういう作品性を取り入れた「エンタメ」。『13の理由』は大小さまざまなヒロインの動機を全て同列に描き切っていて、言ってしまえばそれが「社会」だ。人間が主観的に経験し得る社会の在りようを、「一人称」視点で濾過しながら語り継ぐ映像。それが『13の理由』が凄まじい作品である理由の一つだった。

現実が八方塞がりだと錯覚させる上で、『ジョーカー』もホアキン・フェニックスの顔面をどアップで撮影し続けている。首から上の様子だけで世界を表現できてしまう彼の表現力はやっぱり眼を見張るものがあったし、観ていて世の中を諦めたい衝動に駆られることもあるだろう。

もちろん、現実の社会はたった一人の主観では描ききれないほど複雑だし、その意味でアーサーは「拗らせた」人間だ。しかし、そうして拗らせざるを得ないその感覚を、彼の主観を忠実に体感させる上で、この作品もまた狭窄的な描写を積み重ねることを選んでいる。

『ジョーカー』はホアキン・フェニックスの顔面で、『13の理由』はキャサリン・ラングフォードのかわいい声で。「犯罪」と「自殺」を同列に扱うことはできないけれど、両作が同じようなアプローチをとっているのは事実。ある個人の主観を基軸とすることで、この二作品は複雑な社会模様を分かりやすくエンタメ化することに成功してしまった。人が本来行くべきではない「向こう側」へ歩み出す複数の理由。世間から危険視されるのは、こうした「社会を誤認識する主観」を見せつけるその行為自体にあるのだと思う。

 

(……まあ、この程度で危険とか言ってたら人を殺すゲームのストーリーとか『MGS2 or V』の作風なんか一生受け入れられないだろうな。クソが。) 

 

誤解を恐れずにいうのなら、僕はこういう物語の描き方を画期的だと讃えたい。少なくとも、ある不幸な「1日」だけでジョーカーが誕生すると言い切った『キリングジョーク』より、本作『ジョーカー』の方が現実的なオリジンであったと思う(別に、現実に忠実な方が優れてるという訳でもないけどね)。人を狂わせるのは非日常的体験では決してなく、狂っているのに何も変化を感じさせない日常の方だ。そう言い切ってくれる優れた作品をこれからも応援していきたいし、エンタメならなおさら……という気持ちになる。

 いや、ジョーカーはれっきとしたアメコミ映画であり、エンターテイメント作品ですよ。もっと気軽にみに行っちゃってくださいよ。かわいいから。

 

■余談(ここからネタバレ注意)

例の「お約束」シーンとか、バットマンネタを抑えてくれるところも好感度高かった。アメコミの枠を超えた……的な宣伝文句が飛び交っていますが、むしろアメコミ映画としてめちゃくちゃ優秀じゃないですか? むしろここからDCEU始めて欲しい、思ったのは僕だけでしょうか。

 

■余談2

いや、やっぱお約束シーンの雑な(※ザック・スナイダーの描写と比較して)感じが本当に好きすぎる。とってつけたように飛び散った真珠も大好き。