【感想・考察もどき】The Last of Us Part Ⅱ:なぜここまで本気でゲームを作り込んでしまったのか

当然ながら、この感想文は作品の結論部までのネタバレを含みます。
それと、独りよがりな解釈と願望等を書き散らすだけの記事なので、
正当な評価や批評を求めて読むことの無いように気を付けてください。

 

昨日パートⅡのストーリーをクリアして、その直後は「これはもう続編いらないな」と思っていた。この世界を十分堪能したという実感があったし、ラスアスでなくとも当分他のゲームを手に付ける気が起きないレベルで放心していた。

 それに、パートⅡという物語が抱えていたある問題点が気にかかっていた、というのもある。序盤でジョエルが死んでしまったせいもあり、エリーとジョエルの関係は全てゲーム本編より「前」の出来事として描かれることとなる。エンディングでは二人の関係性の本当に重要な場面(とっても感動的!)があったが、それも含めて後出しなのだ。

アビーの正体や動機についてもそう。この作品の「展開」は、徹頭徹尾前作から本作のゲームパートが構成される以前の成り行きで終結している。だから結果的に、本編のゲームプレイでもたらされる出来事が「徒労」あるいは「予定調和」に感じられてしまうという欠陥があった(欠陥というのは言い過ぎか。復讐というテーマの描写法としては、それが正しい部分もあったから)。

いずれにせよ、パートⅡの本筋は過去(=前作)への執着が強過ぎた気がする。だから、前作のラストが抱えていたあの問題が、エンディングで一度解消されてしまったことで、良くも悪くもラストオブアスは自分の中で「終わった」物語となった。過去や現在の凄惨さは死ぬほど描かれたが、「未来」への示唆は一切ない。そこが前作と違う点だと思う。

独りになったエリーを憂う気持ちもあるが、それは「これからエリーはどうなるんだろう」という期待とは明確に違う。彼女の未来がろくでもないことは、もう想像に難くないからだ。ジョエルもJJもおらず(トミーはもういらん)、そこにはなんの期待も浮かばない。エリーの視点だけに注力すると、マジで「もう続けるものが無い」物語だろう。だから、率直な感想として、「もういいや」と想えたのだ。


とはいえ、だ。


この「パートⅡ」は、エリーとジョエルだけの視点で描かれる物語ではない。
この作品にはもう一人、アビーという凄まじい主人公がいる。

 

巷ではポリコレだフェミニズムだと騒がれているアビーだが、正直彼女のやばさは「そこ」じゃないと思う(僕もこの手の価値観を雑に取り入れる作品は嫌いだし、正しければなんでも面白いとも思わないが、アビーの人間性は後述の立ち位置も含めちゃんと意義のある形だったと思う)。

彼女を通して提起されるのは、ゲームキャラクターの「人権」と「尊厳」の問題だ。なぜって、彼女の父親は前作の最後でジョエルに殺された「あの人」だった。明らかな殺意を持ってやって来たジョエルに対する、彼の妙に真摯な態度を覚えているプレイヤーも多いと思う。

とはいえ、プレイヤーは前作時点では彼のことを「ただのNPC」以上には認識していなかっただろう。だから、いとも簡単に「殺せて」しまった。僕もそこまで重要には感じなかったので、持っていた火炎放射器で彼らに火をつけた(ごめんなさい…)。

あの場であっけなく殺された「彼」の人生には意味があったというのが、アビーの怒りの根源であり……それ自体は、「所詮彼など殺されるために生まれたゲームの1NPCに過ぎないというメタな視点」を除けばぐうの音も出ないような正論だ。

前作の時点でも、一応「NPCにも人生がある」という視点は投げかけられていた。しかし、その主張をする親玉がサイコパスクソ野郎だったのも相まって、「罪悪感」を恣意的に相殺した面もあったと思う。

だからこそ、今回はそこへのカウンターとしてアビーを「正しさ」の象徴のように描いたのだろう。ジョエルへの復讐の動機も、それを終えてからの「更生」も、コレクトネスの塊のようだった(※濡れ場は謎)。まさに「NPC代表」と言えるような立場であり、それによってジョエルの過ちを浮き彫りにした人物だったと思う。

そして、本作は同時に、彼女以外のあらゆるNPCの生きざまも丁寧に描き尽くしている。旅の中で対峙する全てのNPCが、ノーティドッグの変態技術の恩恵を…つまり「人間性」を付与されている。互いの名を呼び合い、気遣い、しかし死ぬ間際には「命乞い」をしてしまうような弱さもある。そうした「モブ」でしか無い人々のすべてを、他の作品とは一線を画すレベルで作りこんで見せたのだ。


つまり、まとめると本作は、

 

・前作で殺めた人々の中の「物語」を示唆し、

・同時に全てのNPCを狂気じみた精度で描き、「人間」に仕上げた。

 

この2つの要素の”組み合わせ”こそが、この作品の肝だと思う。なぜって、結果としてこのゲームからは次のような想像ができる。「エリーが今作で傷つけた全てのNPCが、生き延びたら『次の復讐者』になる可能性を秘めているのではないか?」と。

全てのNPCを殺して回ったプレイヤーはごく一部だ。大抵は、障害となった「敵」の命だけをランダムに奪っている。だからあの戦場にはところどころ、「エリーとの死闘を生き延びた誰か」が残るだろう。

残された彼らは何を思うだろうか。一人一人が、強い喪失とやり場のない感情に苦しめられている。戦いの中でプレイヤーを「目撃」しているとしたら  怒りの矛先が、エリーやアビーに向かっても何ら不思議ではない。

このような可能性を生々しく「想像」させる力が、この続編には存在する。
今作のラストで「復讐の連鎖が止まった」と考えるのは間違いだろう。エリーもアビーも、あの「世界」の中に腐るほど多くの火種を作っている。巻き込まれたディーナやレブの人生にも、きっと影を落とすだろう。地獄への道は「どこから」でもプレイヤーを襲い得る。

あの世界にいる限り、プレイヤーはあらゆる「人間」から憎まれているのだ。何とも酷い話だと思うし、実際僕たちは彼らにとって、本当にひどい奴だったのだろう。

思うに、今作は「体験する映画」と呼ぶべき代物ではない。
映画や小説には、主要な登場人物やテーマを引き立てるためにあえて「記号的」に描かれるキャラクターも少なくないが、本作にはそのような記号化が一切ない。NPC一人一人にとっての「現実」の質量を思えば、はっきり言って、本作の大筋といえるエリーとジョエルの物語なんて大して重要ではないのではとさえ思う。もはやそれはエリーの主観に過ぎないし、本作はその世界観でもってより大きなテーマを抱え込んでいたはずだ。
アビーを含めたすべてのNPCの人生を、まるで彼ら一人一人が「未来のプレイヤー」であるかのように作りこむ。実際に続編が出るかどうかは関係なく、こうした「状況」を完成させてしまったのが本作の最も凄まじい部分だ。世界そのものの「主張」として、NPC代表であるアビーはついに「プレイアブル」な存在となった。ユーザーが最もアビーを殺したいタイミングで操作をアビーその人に切り替え、「NPCの人生」を追体験させる。面白いことに、その物語の成り行きで、復讐を終えたアビー自身が罪人へとなり下がってしまう。
プレイヤーはキャラクターの「復讐心」として、作中のあらゆる主人公に宿る。プレイアブルであることで、はじめて人としての尊厳を獲得するファイアフライ以外のあらゆる組織を敵に回したアビーは、その延長でエリーという他者に「襲われる」。

倒錯した経験の末に操作はエリーへと戻るが、プレイヤーの視点はもはや彼女の「主観」には縛られない。最後の戦闘で何度も出てくる「連打QTE」……もはや、どちらを守っているのか分からなくなりそうだった。

 

 

 

あの世界の全ての命に価値があり、僕らは「娯楽」として彼らの人生を奪いつくした。
その結果と「責任」を、信じられないほど大真面目に見つめなおしたのが、このシリーズの達成といえると思う。

 

 


ゲームは「メタ媒体」だと言われている。
「小説的なゲーム」としてのノベルゲームや、「スポーツ的なゲーム」としてサッカーゲーム等があるように、様々な媒体の特性を「模倣」し、「シミュレーター」として再構築するのがゲームというメディアの本質だ。
(だから、ゲームは小説や映画とは並列関係でもなく、違う位相に属するメディアだと思う)

The Last of Us』という作品はずっと、荒廃した世界の中における人の「尊厳」をシミュレートし続けてきた。これは本物の挑戦だと思うし、今回も素直に感動した。とはいえ、この世界が続いていく様を実際に見たいのかどうか、即座に結論を出せないでいる。この先どうなるかなんて、1人のプレイヤーのちっぽけな想像力では全く想像もつかないからだ。

ノーティドッグの技術はもう、「たかがゲーム」とは笑えない領域に達していた。