Impression:BLADE RUNNER 2049

脳内彼女の外部化/可視化

・『ラブプラス』『サマーレッスン』の最終形態

・「いいのよ、K」

・私が好きだったジョイのままでいる

 

 そんなジョイが可愛い。

 『ブレードランナー2049』の魅力は何かと言えばKとジョイの尊い関係性であり、ライアン・ゴズリングとアナ・デ・アルマスの「非現実」感だと思う。この二人のどこがヤバイのかを語る上で、まずヴァーチャル・リアリティの概念について説明しなければならない。

 VR。日本語では「仮想現実」などと訳されがちだがこれは間違いだ。ここでのVirtualという言葉は「仮想(Imagination)」というより「実質(Substance)」に近く、Virtual Realityというのは「実質現実」——人間にとって本質的な部分を再現する営みに付与される言葉だ。VRが「現実逃避」的な意味合いを持ってしまうのはある意味日本語の問題でもあって、その点本作の主人公は堂々と「実質彼女」を連れ回っている。いや堂々ではないか。気まずそうなシーンもいくつかあったけど……それはそれ。

 2017年にいる僕らは、ジョイを「キモヲタの妄執」などと看破したくなる。なんだかムズムズしてしまうのだ。現実にはここまで都合のいい異性などいるはずがないし、触れられない彼女とは結局子を成すことさえできない。『ネオン・デーモン』でも描かれた通り、僕たちは「自然」に生まれたエル・ファニングの美貌を持ち上げ、整形美女を嫌う。『ラブプラス』の女の子たちが可愛いのはそのように作られているからであって、その裏側にあるであろういろんな顔(別に「中の人」の顔がどうこうと言いたいわけではなくて、裏側にいるK社とかの存在や「意図」の話ね)を勘ぐり始めると誰だって怖くなる。非オタクな人たちがアニメキャラなどに対し「怖い、胡散臭い」という思いを抱いてしまうのは、彼女らがばらまく「無償の愛」などというものをまるっきり信用できないからであって……あれ、なんか話が逸れてきた(ちなみに、最近話題の「母性本能」なるものは現実に存在しないらしい。動物園にいるゴリラの母親は「母性」を習得するためにビデオなどでお勉強するらしいですよ!)。

 

 さて、『ブレードランナー2049』において、こうした自然主義はグロテスクなヒエラルキーを創造してしまう。木すらろくに生えていない世界の中で、「自然に誕生した人間には魂がある」などというたわごとをKは信じてしまう。魂……人間にとって非常に都合のいい、まさに実質的な概念を活用して、この世界は人とレプリカントを二分するのだ。序盤では「あなたに魂は必要ない」などのやりとりが行われるが、前作の結末を観た我々からすれば、非常に無意味な会話に感じられるだろう。

 

 とかく、自然であることが偉い。

 

 人間に対抗するレプリカントが持ち出す「奇跡」でさえ、結局自分たちが自然な存在であると証明するためのものだ。本作が問うているのは、人間とレプリカントの間の「具体的な差異」ではない。そんなものが存在しないということは、前作がすでに説明しきっている。

 この映画で示されたのは、人間が人間による徹底的な管理を、制御を受けることによって、あたかも「人形(レプリカント)」のように扱うことが可能である、ということだ。『2049』が描き出すのは未来の「スタンフォード監獄実験」——人間の待遇が自然/非自然という「肩書き」だけで大きく変容することを、極限まで活用したディストピアなのだ。

 実のところ、「ジョイ=妄執の奴隷」という話をするならレプリカントだって同じだ。K達が人類によって非常の都合のいい存在、「ガールズ・サイド」ならぬ「ヒューマンズ・サイド」の被造物であるということは、この世界の大前提となっている。魂のない労働力としてKを「使用」する免罪符として、人類は「自然の奇跡」を悪用している。お前は自然な存在ではない、という肩書きを与えられ、あらゆる行動や思想を管理することで、レプリカントは労働力として扱われることを良しとしてしまうのだ。

 結果として、2049年の世界においては、K(ジョー)とジョイの間に「差異」はほとんどなくなってしまう。管理された現実を生きるKと、実質現実の産物であるジョイの関係性。それは『her』で描かれた関係とか、ギャルゲーのヒロインとプレイヤーの関係性とは少し違う(もちろん同じ部分もあるけど)。例えるなら、「ゲームキャラ同士のクロスオーバー」のようなものだ。現実の複雑系の中で「造られた」もの同士として、二人は互いを愛するようになる。

 

「あなたは特別」

「君はリアルだ」

 

 そうした言葉を互いに掛け合うのは、逆説的に自分が特別であると認識するためであったかもしれない。Kとジョイは同質の存在で、それゆえに「惹かれ合う」。もちろん、これが様々な作為の成れの果てであるのは言うまでもないし、「結局はKの妄想。自然で、自由な恋愛ではない」と笑う人もいるだろう。けれど、この作品はあの『ブレードランナー』の続編だ。人間とレプリカントの差異を取り払ったかの傑作は、そうした現代的発想に対して強烈なカウンターをかますことができる。つまり、「現代の都市生活における人間同士の関係性だって、結局は作為の連続じゃないか」と。

 僕たちはなんとなく「虫に魂はないだろうな」と思っているし、犬などの哺乳類には「魂あるんじゃね?」と感じている。人間には確実にある。あるっぽい。じゃあ人間同然のレプリカントも魂、あるだろ。前作の結論はそうだったが、今作はさらに前へと進む。

 レプリカントに魂を見出した我々は、次に「ジョイ」の精神性を問うことになるのだ。一つの「フィクション」に過ぎない彼女には、はたして魂が宿るのだろうか? 

 

 ……いや、そもそも「魂」なんて代物を、いつまで人は拠り所とするのか。