今日はただの映画の日でした

昨日は完全に勘違いしていたけど、9月1日はMGSVの発売日とは少し違った。

北米版が出たのが今日で、日本発売は明日らしいです。そういやそうだったね。

ちなみに、「永遠の空白」記念日は9月16日です。

 

 今朝は『パターソン』を観てきました。なんでもない日にありがとうするいい映画だった。

ありきたりな時間の流れを詩人の目線で物語ることで、観てる人の「日常」への感度が何倍にも増していく。感度倍増ってどこの薬だよ、と思うかもしれないが、実際想像以上なのだ。アルファ波が出そうなBGMとともに淡い映像が流れ、アダム・ドライバーが詩を朗読する例のシーン。あれは……あれは結構やばいな。

ただ、正直観る前はゲームの方がやりやすい話なんじゃないかと思ってた。RPGのレベリングに代表されるように、ゲーム上の行動は「作業化」しやすい。その上物語として「終わる」必要性もないのだから、物語と日常を完全に融合させてしまうことも可能だ。

ようするに、パターン化された日常を描くなら、やっぱり『どうぶつの森』みたいなゲームにしてしまうのが一番ですよね、という話。

繰り返し行う作業は、やがて人間の意識から忘れ去られていく。通勤時に毎回バスを使っているとしても、いちいち運転手の顔を覚えているわけじゃない。通勤や通学という活動を作業に落とし込み、最終的に全てを「自動化」してしまう。絶え間ない時間の流れを、意識的に追うこともなくなっていく。

じゃあ、日常的な営みを全て自動化させてしまったらどうなるだろう。朝目覚めてから夜眠るまでの行動を、全て作業として成立させてしまっている人。『ハーモニー』のようなフィクションでなくとも、こういう人は実際に大勢いるはずだ。

おそらく、その人は退屈していると思う。

ゲームの場合だと、雑魚戦闘やアイテム集めにはなんらかの「報酬」がついてくる。もともとプレイヤーは全能になれるように仕組まれていて、そうした保証があるからこそ、無限に等しい作業を繰り返せる。どれだけ時間をかけようと、最終的にそれらが無為になることはほとんどない。ストレスを削減する様々なデザインの結果として、ゲームで描かれる「日常」というものはどことなくきらびやかだ(もちろん、例外もたくさんあるのだが)。

現実はどうだろう。日常の短くない時間を「作業」として捧げた上で、それに見合う対価を「必ず」得られるなんてことがあるだろうか。よほど恵まれてない限り、そんなことはあり得ないと思う。

じゃあ、今の日常それ自体に価値を見出すことができるだろうか。それもないよね。だって、僕らが普段やっているのは、意識化するまでもない作業の集積だ。理想や目標といったものを全て削ぎ落とした、いわば「経験値のたまらない雑魚戦闘」のようなもの。多くの人にとって、現実世界の営みなんてその程度の存在だし、個人的にはそれが悪いことだとも思わない。けれど、こうして自動化された日常の中でも、本人の「自意識」そのものが消失しているわけじゃない。だから退屈に思うのだ。

「こんなはずじゃなかった」

適切な報酬を与えられない、「ゲーム」としては破綻した現実世界のことを「不完全」あるいは「未完成」と貶すこともできる(あてつけ)。その上で、少しでも現状をよくしようと働きかける人もいるかもしれない。立派だと思うけど、これができるのがごく一部の勇気と運のある人間だけだろう。

凡人は他の手段を見つけるべきだ。『パターソン』という映画はむしろ、日常の中で忘れ去られて行く「バスの運転手」の視点からで切り取っている。いつも通りの時間に、代わり映えのしない場所へと人々を運んでいく仕事。そこに価値なんかない、と悲観する代わりに、パターソンは詩を書くことに決めたらしい。大勢の日常の一部として、あるいは一人の個人として、彼はより強い感受性を持って世界と向き合う。退屈な作業を受け流さないからこそ、彼の日常は強い物語へと変貌するのだと思う。

日常をそのまま表現するシミュレーターなら、ゲームの方が作りやすい。けれど、日常を物語化するという営みに関しては、映画や小説の方がイケてるかもしれない。想像とは真逆な面白さのある一作だった。