MCUの倒し方、知ってますよ

DCEUの最新作である『ジャスティスリーグ』を観てきた……が、今日話すのはその感想ではない。

ザックには非常に申し訳ないんだけど、今日イチで衝撃を受けたのはJL本編ではなく、ある映画の予告編だったのだ。

それはIMAXで観た『ブラックパンサー』の衝撃でもなく(いや、あの予告の興奮度もすごかったんだけど)、ワカンダの王と『スターウォーズ』の間に挟まれた一本の作品。

 

名前は、『鋼の錬金術師』。

 

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【再掲/考察】MGSVと進化と完成。

 ダーウィンの進化論。
 人間は猿から進化した、という話は完全に常識となりつつあるけれど、その過程がどうであったか気にする人は少ない。
 猿はどうして人間になったのか。長い時間の中でゆっくりと進化してきたというにしても、たかだか5、600万年でここまで発達するのはおかしい。あらゆる生物の中で、最も進化論に当てはまらないのが実は人間だ。他でもないダーウィン自身が、その問題を指摘している。

 

 猿から人へと通じる一筋の物語。
 この埋まらない空白のことを、「ミッシング・リンク」という。

 

 かつて、一本の映画がこの空白の答えを導こうとした。『2001年宇宙の旅』において、猿たちはモノリスに啓発され、とある行動から今日(未来?)の人類に進化を遂げている。この映画で発達の原動力となったのは、猿自身が抱えていた「殺人本能」だった。同じ種(RACE)の生き物を殺した末に、宙に放られた一本の骨が、やがて核兵器を搭載した人工衛星へと移り変わっていく姿。スタンリー・キューブリックが提示したのは、人間は殺し合いによって進化してきたという残酷な仮説だった。
 この「キラーエイプ仮説」の発端は、アウストラロピテクスの発掘にある。掘り出された化石の状態や、その周辺状況から、400万年前の人類が道具を用いて狩猟を行っていた可能性が指摘されたのだ。化石の破損は他の動物だけでなく、アウストラロピテクス自身の頭蓋骨からも発見された。こうした検証結果から、棒(骨)を用いた殺し合いは同じ種族間でも行われる、という説が導き出されることになる。
 人類の歴史は殺し合いによって発展してきた。キラーエイプ説は『2001年』の大前提となっていて、だからこそ、人類はさらに「進化」しなければならないという展開が終盤に待ち受けている。その超克がどのように成されたかに関しては、ぜひ映画を観て確かめてほしい。




(観るだけで分かるとは言ってない)

 

 

 さて、現在このキラーエイプ仮説は否定されている。
 アウストラロピテクスの頭蓋の破損跡は、結局肉食獣に捕食された痕跡だった。そもそも、同じ種族間の殺し合いだって、何も人間に限った話ではない。チンパンジーの同種殺しが確認された今日にあって、殺しが人と猿を分かつ引き金であると言うことはできない。歴史に開いた空白は、実を言うと今も残されたままなのである。

METAL GEAR SOLID V』でもそれは同じだ。700万年前の「人類」に因んで、初めて直立歩行ができるようになったメタルギア・サヘラントロプス。それが一体どうして「立てた」のか、本編中で明確な説明がなされることはない。語られたのは、「第三の子供」の超常的な力により動かされたこと。そして、その力を具現化するのが、人間の強い報復心であるということ。

 

「世界は報復で一つになる」

 

 髑髏顏の男(スカルフェイス)がそう語った時、メタルギアは唐突に進化した。まるで、報復心こそが進化の根源であると示すみたいに。スカルフェイスを苦しめた「言語」――ことばを発するための声帯は、元々直立二足歩行によって発達したものだ。彼の思想は、奇しくもキラーエイプ仮説と同じように、スネークを歪な未来へと誘惑する。
 1984年、彼は宙に浮く少年と出会い、報復心という「真実」に立ち会った。そして、その真実がまがい物であると証明するように、惨たらしく死んでいく。一章はそんな物語だ。
 普通の作品ならば、二章では前章に残った謎を解決していくお話になるのだろうけど、ご存知の通りそうはならなかった。小島秀夫監督は「永遠の空白」を語り、メタルギアの円環は閉ざされぬまま終わりを告げる。

 発売前のいざこざのせいで、MGSVは今や「未完成の乱造品」みたいに扱われているけれど、これを正しい評価と考えるのは難しい。監督自身が「完成度に満足している」「納期は守った」という発言を度々している一方で、いわゆる「第三章」のソースはといえば、根拠不在のリーク情報だとか、「データ解析の結果GZのビッグボスが動かせた」みたいな細々した情報とかとかとか……(海外の攻略本によると、バトルギアの操作は全体のゲームバランスを重視した結果没になったらしい。『蠅の王国』も元は追加コンテンツだったと公式Twitterが述べているので、こうした未収録要素は三章の根拠にはなり得ない)。
 現在の暴動に近いVの未完成批判は、はっきり言って事実無根だ。

 

「どうしてこれを未完成と呼ぶんだ。まともなのは僕だけか?」

 

 小島信者(a.k.a 俺)はこんな風にすっとぼけているものの、実際その気持ちはよく分かるはずだ。Vはあまりにも、いろんな謎を放置したまま終わってしまっている。この作品が「説明不足」である理由についても、個人的に納得のいく考察は殆どなかった。どのように語った所で、結局は他人の弁解だからかもしれない。一連の騒動の結果として、小島監督がTPPに言及する機会は非常に限られたものとなった。消化不良を感じているファンは非常に多いだろう。

 ここでは誰かの解釈ではなく、小島監督自身の言葉を拝借したい。彼はエッセイ本である『僕が愛したMEMEたち』の中で、『2001年』についてこう述べている。

 

「僕の中で『2001年』は単に映画というだけではない。体験そのものである。無宗教だった僕はこの映画で宇宙と出逢い、新しい神の概念と出逢い、そして物創りの神と出逢った。凄まじい衝撃と知的興奮にうち震えた。どこを観ても、何回観ても、それが人の手による創作物とは思えなかった。抽象的であり、科学的。難解であり、シンプル。どこまでも完璧であるが故、どこまでも未完成である。映画であり、映画ではない。後にも先にもこんな映画と出逢った事はなかった。映画を超越した存在だった。これは本当に人為的に作り出された物なのか? どうしてこんなものがあの時代に創れるのか? 僕はあれから、機会があるごとに繰り返し『2001年』を観に行った。まるで映画の中で類人猿がそそり立つモノリスに触れ、教えを請うたように。しかし、未だに答えは出ない。答えが出るとも限らない。それでも追求したくなる。また旅をしたくなる(p247)」

 

 意図的に作中の説明を省き、時系列の入れ替えなどでわざと難解に作られた『2001年』。この作品に強く影響を受けてきたA HIDEO KOJIMA GAMEだからこそ、シリーズの最後には「永遠の空白」が残されたのかもしれない。

 チコの設定画や音声なども確認されている昨今で、こうした考えを未完成の言い訳と捉えるのもアリといえばアリだ。しかし、その「未完」は小島監督の意思であるということ――つまり、KONAMIの騒動は無関係であることは強く主張したい。
(叩くならTPPを叩けばいい。F**KONAMIは飽きた)

 なんにせよ、メタルギアシリーズがついに「進化論」のモチーフを取り入れたこと。その上で、終盤にフリードリヒ・ニーチェが引用されているのもおそらく偶然ではないと思う。『2001年』終盤の展開は、ニーチェの超人思想を基に構築されている。劇中の音楽にも『ツァラトゥストラはかく語りき』が用いられるなど、その影響は明白だ。
TPPの進化論の方も、単に歴史をなぞるだけでなく、「さらに前に進むための」テーマとして用いられているのだろう。「真実」を語るエピソードの中で、引用にはこうあった。

 

「事実なるものは存在しない。あるのは解釈だけだ」

 

 人間である以上、言葉を使う以上、ありのままの事実など掴めるはずがない。これだけ長々と語ったところで、この文章もどうせ個人的な解釈である。本来はそうあることしかできない。
 けれど、MGSVで小島秀夫は「事実」を作った。
 この作品に隠されたモチーフは無数にある。『2001年』だけにとどまらず、『白鯨』『1984年』『闇の奥』など様々な顔を持っている。もちろん、これまでのサーガの蓄積もそうだ。あらゆる側面が真実であり、けれど一つの解釈に過ぎない。オープンワールドに作られた複雑系は、VRなんかよりよほど「リアル」なバーチャル空間として永遠に存在し続ける。某小説家の考察になぞらえて言うならば、永遠の空白とは「制御されない仮想現実」なのだ。サーガは監督の手から解放され、ついにプレイヤーの現実となった。

 このゲームを遊んだならば、ぜひ自分の頭で考えてみて欲しい。最終的には、そうすることでしか読み解けないルールだから。いくら考察したところで、答えなんか永遠に見つからないだろう。それでも、そこに向かっていく意義はある。


 かつて、メタルギアは『2001年』の空白から生まれた。Vが要求する態度というのは、いたってシンプルなものだと思う。

【再掲/考察】MGSV:TPP 省略されない日常と、クワイエットの話

朝っぱらからMGSVの面白すぎる解釈を見ました。

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見ていてなんだか懐かしい気分になったので、昨年生まれて初めて「ブログ」という形で投稿した文章をここに再掲載しておきます。

星新一賞に出した『Frameout』すらまだ書きはじめていない頃なので、個人的に生まれて初めて「世界に売った(for free)」文章になります。プライスレスです。

拙いのはもちろんのこと、これを書いていた時期の僕はやけに性格が悪いです。別に伊藤計劃の「ごくろーさん」をリスペクトしたわけではなく、当時は『MGSV』という作品に対する風当たりがまだ激しく、僕も悪い意味で心が温まっていたのです。ご了承ください。

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Where is my mind?

フィンチャーが流転した。『マインドハンター』というドラマシリーズの感想です。

フィンチャー作品全般のネタバレがてんこ盛りなので、色々気をつけてください。

 

「主人公が大きな力に振り回される話」と書けば、いつものデヴィット・フィンチャー作品かもしれない。とある人間(あるいはその人をめぐって起きる諸々の社会現象)に直面した結果、どうすることもできずに振り回される誰かについての物語。大雑把に言ってしまえば、彼の映画はだいたいいつもそんな感じ。

その「誰か」というのは大抵ひどく平凡な存在でもある。以前『ファイト・クラブ』のHonest Trailerを見た時、主人公の苦悩を「先進国の贅沢な悩み」とバッサリ切り捨ててたのがすごく笑えた。

 

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確かにその通りなんだけど、あの映画のエドワード・ノートンは圧倒的に平凡な存在である必要があった。なぜなら、フィンチャー作品の主人公というのは僕らそのもの……タイラー・ダーデンというカリスマに人生をかき乱されるのは、自分と同じくらいの立場にいる人間でなければならない。

じゃあ、僕たちは無力で無様な自分自身の様子を見たくて映画を観るのかと言えば、もちろんそれも違う。見たいのはむしろ、振り回す側にある圧倒的な環境の方。逆らいがたい何かと化した人間や現象、あるいはフェイスブックがド派手に荒れ狂う様だ。少なくとも僕は、タイラー・ダーデンアメイジング・エイミーの姿を見て、「こいつは敵わねえや」と笑うためにフィンチャーの映画を見ている。絶対的で逆らえないエネルギーを演出として活用した結果、映画として毎回強烈な印象を焼き付けてくれるわけだ。

  

従来のフィンチャー作品だと、現象の渦中にいる人間、つまり現象をコントロールする「演出家」に当たるのは一人のカリスマ的存在であることが多かった。もちろん中には『ゲーム』みたいな例外もあるし、『ゾディアック』なんかは厳密に「個人」と言えるのか難しいところがあるんだけど(その意味で今回の作品は『ゾディアック』にすごく近いと思う)、フィンチャー作品はやっぱり「強烈な個人」の印象が強い。

『マインドハンター』が普段と決定的に異なるのはこの部分だ。本作には複数の殺人鬼が登場する。シリアルキラーという言葉がなかった時代の、猟奇的な殺人鬼たち。ドラマシリーズの尺を使って、この作品は「現象」の所在を複数人に分散させた。つまり、魅力的な個体(キャラクター)であることをやめて、より抽象的な概念に近づいてきたということになる。

けれど、そうした殺人鬼ひとりひとりが本作の演出家なのかと言えば、それもまた違う。この作品において、殺人鬼たちはむしろ『被害者』として扱われている。演出家というよりは演出そのもの、『セブン』でいうならジョン・ドゥに殺された「死体」の側として、エドモンド・ケンパーたちは登場した。

彼らは望んで演出家になったのではなく、演出せざるを得ない状況に追いやられた。プロファイリングの手法を確立する上で、主人公は彼らをそんな風に捉えていく。今回の「シークエンス・キラー」は、状況に導かれて殺人を行った生贄の役割を担っている。ホールデン・フォードという男は、ケンパーたちの行為を狂気として切り離したりはしない。だから、社会に見放された生贄としてその「責任」の箍を外し、普通の人間として心理を理解しようと努めていった。

どのような背景を持って、殺人やレイプへと駆り立てられるか。衝動的なものか、計画的なものか、罪悪感はあるか、等々。彼が学んでいくのは、ようするにこの作品の「演出技法」そのものだったりする。僕たちは普通の人間だ。「やべーやつ」の心理なんて分かるはずがない。このドラマの主人公は、そうやって犯罪者から自分を切り離す行為を、切断処理をやめてしまうのだ。

「やめる」こと自体は以前のフィンチャー作品でもやっていたことでもあった。『セブン』や『ゴーン・ガール』のラストなんかは、普通の人間であるはずの主人公が、抵抗を感じつつも狂気に加担する様を描いている。けれど、具体的な誰かに手を引かれたわけでもなく自ら演出家になって行ったのは本作が初めてなんじゃないかな。

ドラマの終盤では、この作品の演出家はホールデン自身であることが明らかになっていった。気がつけば、彼は犯罪者との対話を劇として捉え、その場の登場人物を「操る」すべを身につけている。それなのに、シーズン1の最後の最後まで、当人はそれを自覚することができていなかった。

本当に恐ろしいのはその無自覚さであり、ある種の無責任さだ。ホールデンは確かにこのドラマの演出家として機能し始めていた。僕らはそこに静かな快感を覚えこそしたものの、かと言って彼にタイラーのようなカリスマ性を見出してはいない。基本的に、ホールデンは自分の「直感に従い」、状況に対処を重ねて行っただけである。明確な悪意を持っていたわけでも、自己破壊をしようとしたわけではないし、ましてや社会を脅かそうとする意図なんかどこにもない。

基本的に彼は善人だ。だから、こんな風に問うことができる。彼にいったい何の責任があるというのだろう? と。シリアルキラーに課された責任にすら無頓着なホールデンが、自分自身の責任に気づくのはより一層難しい。実際のドラマの上では、むしろ彼は積極的に責任を背負い込もうとしていた節すらある。"I made the decision on my own"とかね。

ホールデン・フォードという男は、人間の責任というものにひどく興味がないのだ。彼はすでに、人の心が環境に左右されることを知っている。おぞましい連続殺人を犯して行ったシリアルキラーたちが、捉えようによっては「普通の人間」であるということも。

 

「君がスペックに使った言葉はFBIの品位をおとしめる」

「あなたは"クズ"と……ほらね」

 

みんな同じ人間で、みんな正常だし、みんな狂うことができる。

『マインドハンター』という作品は、単純に「現象」の渦に振り回される被害者ではなく、また渦を制御する加害者でもなく、とめどない渦の「一部」として人間を扱う。根本的なところで無力ではあるが、全く力がないわけじゃない。そんな宙ぶらりんな状態で、単純な狂言回しとも言えない立場をふらつくだけ。そこから脱する手段はない。

そんな世界の中で、果たして人間に責任を課すことなどできるのか? 

これは「責任」についての物語であると僕は思う。『マインドハンター』というドラマは、「自主性」という重要な因子を欠いた、空虚な責任を追求する物語だ。

 

 

創作「星新一賞太郎」

昔々ある所に小島秀夫ワンダーウーマンが住んでいました。  小島秀夫は本庄へパクチーしに、ワンダーウーマンは二日へパターソンしに行きました。  ワンダーウーマンが二日でパターソンをしていると、メタルギアメタルギアと、大きなネタバレが流れてきました。  ワンダーウーマンは良い土産ができたと喜び、それを拾い上げて家に持ち帰りました。  そして、小島秀夫ワンダーウーマンがネタバレを食べようとすると、なんと中から元気の良い太田上田が飛び出してきました。 「これはきっと、神様からの授かり物にちがいない」  太田上田のなかった小島秀夫ワンダーウーマンは大喜びし、ネタバレから生まれた太田上田を星新一賞太郎と名付けました。  星新一賞太郎はスクスク育ち、やがて強い上映会になりました。  そしてある日、星新一賞太郎が言いました。 「ぼく、メタフィクション島へ行って、悪いメタフィクションを退治してくるよ」  ワンダーウーマン小島監督を作ってもらった彼はメタフィクション島へ出発しました。  星新一賞太郎は旅の途中で伊藤計劃に出会いました。 「星新一賞太郎さん、どちらへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供しますよ」  伊藤計劃小島監督をもらい、星新一賞太郎のお供になりました。  そして今度はビルドに出会いました。 「星新一賞太郎さん、どこへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供しましょう」  そして今度は立川に出会いました。 「星新一賞太郎さん、どこへ行くのですか?」 「メタフィクション島へ、メタフィクション退治に行くんだ」 「それではお腰に付けた小島監督を1つ下さいな。お供します」  こうして仲間を手に入れた星新一賞太郎はついにメタフィクション島へ到着しました。  メタフィクション島ではメタフィクションたちが近くの村から奪ってきた宝物や御馳走を並べて「本庄氏の宴」をしていました。 「よし、かかれ!」  伊藤計劃メタフィクションに噛み付き、ビルドはメタフィクションをひっかき、立川はメタフィクションを突きました。  そして星新一賞太郎もベトナム人をふり回して大暴れしました。  すると、とうとうメタフィクションの親分が泣きながら降参を宣言しました。  星新一賞太郎と伊藤計劃とビルドと立川はメタフィクションから取り上げた本庄氏を持って家に帰りました。  そして星新一賞太郎たちは本庄氏のおかげで幸せに暮らしましたとさ。  めでたしめでたし。 

 

 

GESO。の結果 - 🍑あなたのツイートから桃太郎を書いたらこうなった!🍑 - アプリ☆メーカー

 

AIに小説書けるじゃねえか!!!!!!!!!!!

星新一賞は一体何をやってるんだ!!!!!!!!!

『ベストセラー小説の書き方』と『ベストセラー・コード』

なんて二冊を急に読み返し始めたのは、ようするに「行き詰まっているから」に他ならない。

 

夏休み中に長いのを一個書いてみる予定だった。実を言えば、夏休み以前にも色々なものを書いて、色んな人に見てもらったりしていた。そこそこ評価してもらえることもあったのだけれど、いざ長編を書いてみようとすると即座に挫折。「鍛錬が足りなかった」という言い訳を一旦敷きながら、ブログを毎日更新してみたり、読みかけだった本を読み直してみたりしている。そんなモラトリアム。

 

やっぱり圧倒的に読書量が足りないのを実感しているのだけど、時間があれば映画とかの方を優先的に観ちゃうのです。今書いているのがうまくいかないのもあって、お上手な小説とか正直読みたくないタイミング。そんな中で読めそうだった本をチョイスしたら、結局この二冊しかなかった、という流れ。

『ベストセラー・コード』の方は発売直後(つい最近)に一度通して読み終えている。『ベストセラー小説の書き方』は三年くらい前に購入し、冒頭だけ読んで、積んだ。そういうものだ。

 

全く逆の趣を持つ二冊を読み比べるのも結構面白い。小説のタイトルの付け方に関して、『ベストセラー小説の書き方』では「キーワードとそれに似つかわしくない言葉を並べたてろ」としている。例えば、キーワードが「悪魔」だったとしたら、「恐ろしい悪魔」ではなく「やさしい悪魔」など矛盾して聞こえるフレーズを与えるべきだという話。一方で『ベストセラー・コード』が好ましいタイトルとして選んでいる単語は一つ。「ガール」。これがめっちゃ受けるらしい。

ゴーン・ガール』や『ドラゴン・タトゥーの女』が挙げられていたから、フィンチャーのファンとしては頷かざるを得ない。映画で言えば、最近も「ワンダーウーマン」が大ヒットしている。WWをガールと呼んでいいのかは正直わからないけど、自分が今はまっているドラマも「iゾンビ」だしなぁ。タイトル外のキャラクター性まで鑑みるとすれば、結構信憑性はあるかもしれない(勘だけど)。

矛盾したタイトルで個人的に思い浮かぶのは、web小説とかの長文タイトルだった。話の「ウリ」や個性をアピールできれば良い、という現代の潮流の原型なのかもしれない。これも僕の勘。

 

本当に趣味で読み比べているだけなので、真面目な書評にはなりそうもない。楽しくてやってるだけなので、気になる人は同じように二冊とも読めばいいと思う。

以上、雑な報告でした。