【感想・考察もどき】『13の理由』はいかにして自殺を描いたのか(シーズン1)

1. A面:ハンナの視点

「自殺」に関する誤解。

死の前後において部外者がやってしまいがちなミスとして、「大きな理由」のみを追求してしまう、というものがある。

自らの命を絶つほどのことをしたのだから、その人はきっと重大な「事件」に巻き込まれたのだ、と。そう思い込んだ結果として、僕たちはレイプや虐待のような「事件性」のある出来事ばかりに注目し、小さな出来事に目を向けなくなってしまう。

これは本当によくない考え方だ。全ての自殺者に、必ずしも大きな引き金があるとは考え難い。むしろ、「小さな理由」を少しずつ蓄積することによって、人の思考は少しずつ自死へと誘導されてしまう。

たとえるなら、それは格闘ゲームの「コンボ」のようなもの。現実世界で人を殺すのは、決して必殺技ではない「小ダメージの連続性」だ。日常のいろんな場所で、人は少しずつ「傷」を増やしていく。そのひとつひとつが些細なものであっても、休む間も無く悪い刺激を受け続けると、やがてひとつひとつのダメージが「繋がっている」ように錯覚してしまう。

本当に人を殺めるのは、この連続性の延長上にある「八方塞がり」の感覚なのだ。苦痛はこの先も繰り返される。現実はもう対処不能だ……そう思えて初めて、人は自らの命を断とうとする。

だから、最後に人の背中を押すのはいつだって、ひどく些細な出来事だ。

「若者にとって大事なことを、大人は軽く考えがちだ。若者は大人と違って、いまの苦痛が”永遠”に続くと思ってしまう。そして大人はそれを忘れる」

『13の理由』シーズン1の特典映像の中で、制作総指揮を務めるブライアン・ヨーキーもこのように指摘する。ハンナ・ベイカーという少女が作中で経験する悲惨な出来事の「規模」は大小様々だった。目を覆うような暴行や、取り返しのつかない事故などと比較すると、例えば彼女がSNSで受けた中傷や陰口(slut-shaming)の事件性はやはり低く感じられる。とりわけ主人公のクレイ・ジェンセンが彼女にとった行動は全て善意によるものなので、彼を理由の一つとして数え上げる(=一部の「犯罪者」と同列に扱う)ことは、クレイにとって酷であるとしか言いようがない。 

けれど、やはり「理由」に大小などないのだろう。テレビドラマのエピソード形式を巧みに利用し、本作は「13の理由」の全てに同じ分量の時間をかけ、同じ悲痛さを感じさせるように作り込んである。大きな事件にばかり目がいくような物語にせず、小さな問題を無下にしない構造を取っているというのが、このドラマが傑作である理由の一つ。

 

2. B面:クレイの視点

クレイとハンナは仲が良かった。堅物の彼は時にその性格をハンナに茶化され、時にその鈍感さで彼女を怒らせてしまう。様々なイベントを通して進展していった二人の関係は、けれど実を結ぶ前にハンナの自殺で断ち切られる。本作の物語は、全てがすでに「終わった」状態からスタートする。 

ハンナの感情に寄り添って制作されたドラマの中で、結果的に最も報われない役回りに当たるのが本作の主人公、クレイ・ジェンセンだった。『13の理由』では、ハンナのテープで語られる彼女のドラマと並行して、当時の二人の関係性についてもクレイの目線から回想されていく。それはあくまで回想に過ぎず、後から思い返したところでどうにもならない。クレイはそれを自覚しているからこそ、誰よりもテープの内容に傷つけられるのだ。

本作の「エンタメ性」を盛り上げる要素の一つに、ハンナの両親がクレイたちの学校を訴える、というものがある。ドラマ開始時点では、両親もハンナの自殺の「大きな理由」を把握しようとしていた。ハンナがいじめられていた可能性を危惧し、疑心暗鬼になった夫婦は度々学校に乗り込んでは、教師や保護者、そして一部の生徒たちを困惑させている。

クレイの母親が学校側の弁護士として登場するなど、その進展は確かにドラマの緩急を作り出した。しかし、本来なら最も重要なシークエンスである結論、つまり「判決」の場面において、このドラマは急に失速し始める。

本作では、物語の中で明確にだれかが裁かれたり、罰を受けたりするシーンがほとんど描かれていない。ハンナの死後にカタルシスが得られるような作りになってしまうと、それは本当の意味で自殺を描くドラマにはならないからだ。製作陣は徹底して作品から「罰」を取り除き、クレイに一度理不尽と戦うことを要求した。

終盤に向かうにつれて、ハンナの死の不可逆性はより露骨に描かれるようになっていく。本作にはもう一つ、非常に残酷な演出があった。「回想」と「夢」、そして「現実」を同質に描くことで、その境界を曖昧にしているのだ。

「ハンナがいれば回想、いなければ現在」というようなわかりやすい区別をつけることができず、視聴者は時折その境界を見失ってしまう。「ハンナは死んでいる」という事実を時折忘れさせるような描き方を、このドラマはわざとやっている。

これは単なる意地悪でやっているのではなく(いや、実際意地は悪いと思うけど)、他人の死をリアルに描こうとした結果なのだと思う。なぜなら、人の記憶は基本的に死者と生者を区別しない。今、この瞬間に死んでいるはずの人であっても、記憶の中で思い返す限りは生きている人と同じように「想起」されてしまうのだ。

「喪」というものの恐ろしさは、実はここにあるのだろう。クレイはカセットテープという形として回想を強いられ、結果として今、ここの空間に彼女の影を見てしまう。演出としてそのように描かれているだけでなく、実際に病的な幻聴や悪夢に苦しめられるシーンもあった。彼の記憶の中でハンナは生き続けてしまう  その恐ろしさを視聴者に体感させる仕組みとして、本作は「記憶の実質化」を演出に取り入れた。

いくつもの回想を経た上で、ハンナの自殺シーンは最終話でようやく描かれることになる。作中で最も痛ましいリストカットの描写を通して、視聴者はやっと「彼女が死んでいる」という事実を認識し始める。

クレイは最後の数エピソードの中で、彼女を傷つけたある事件の証拠をつかむために奔走することになる。もちろん、最終的に手にした「証拠」がどのように利用されたは「シーズン1」では描かれていない。だれかを罰するためでなく、彼自身がハンナの呪縛から解放されるための「通過儀礼」として、『13の理由』のドラマは存在している。

 

3. 感想

正直、多くのドラマは「自殺」を描くのが下手くそだと僕は思う。大抵の場合、ドラマでの自殺は「大きな理由」をいかに味付けするか、という点にばかり力を注ぐので、現実の死者から乖離した描写に感じることが多かった。加えて、その先の結論に「彼女は記憶の中で生き続けている!」などという不可解なポジティブシンキングに陥りがちで、「物語」という枠組み自体が自殺を描くのに向かないんじゃないかと、一時期は考えていたりした。

けれど、そんなことは全くない。『13の理由』という作品は、ハンナの記憶を呪いとして扱った稀有なドラマだ。彼女はクレイ達の心の中で生き続けている。それが何よりも「キツい」のだと言い切っちゃったことに、このドラマの本当の価値があると思う。