『ベストセラー小説の書き方』と『ベストセラー・コード』

なんて二冊を急に読み返し始めたのは、ようするに「行き詰まっているから」に他ならない。

 

夏休み中に長いのを一個書いてみる予定だった。実を言えば、夏休み以前にも色々なものを書いて、色んな人に見てもらったりしていた。そこそこ評価してもらえることもあったのだけれど、いざ長編を書いてみようとすると即座に挫折。「鍛錬が足りなかった」という言い訳を一旦敷きながら、ブログを毎日更新してみたり、読みかけだった本を読み直してみたりしている。そんなモラトリアム。

 

やっぱり圧倒的に読書量が足りないのを実感しているのだけど、時間があれば映画とかの方を優先的に観ちゃうのです。今書いているのがうまくいかないのもあって、お上手な小説とか正直読みたくないタイミング。そんな中で読めそうだった本をチョイスしたら、結局この二冊しかなかった、という流れ。

『ベストセラー・コード』の方は発売直後(つい最近)に一度通して読み終えている。『ベストセラー小説の書き方』は三年くらい前に購入し、冒頭だけ読んで、積んだ。そういうものだ。

 

全く逆の趣を持つ二冊を読み比べるのも結構面白い。小説のタイトルの付け方に関して、『ベストセラー小説の書き方』では「キーワードとそれに似つかわしくない言葉を並べたてろ」としている。例えば、キーワードが「悪魔」だったとしたら、「恐ろしい悪魔」ではなく「やさしい悪魔」など矛盾して聞こえるフレーズを与えるべきだという話。一方で『ベストセラー・コード』が好ましいタイトルとして選んでいる単語は一つ。「ガール」。これがめっちゃ受けるらしい。

ゴーン・ガール』や『ドラゴン・タトゥーの女』が挙げられていたから、フィンチャーのファンとしては頷かざるを得ない。映画で言えば、最近も「ワンダーウーマン」が大ヒットしている。WWをガールと呼んでいいのかは正直わからないけど、自分が今はまっているドラマも「iゾンビ」だしなぁ。タイトル外のキャラクター性まで鑑みるとすれば、結構信憑性はあるかもしれない(勘だけど)。

矛盾したタイトルで個人的に思い浮かぶのは、web小説とかの長文タイトルだった。話の「ウリ」や個性をアピールできれば良い、という現代の潮流の原型なのかもしれない。これも僕の勘。

 

本当に趣味で読み比べているだけなので、真面目な書評にはなりそうもない。楽しくてやってるだけなので、気になる人は同じように二冊とも読めばいいと思う。

以上、雑な報告でした。

 

 

びるど

今年の仮面ライダーは見ることにしました。

久々にデザインが好みなのと、アマゾンズの彼がいたのと、あと武藤将吾

 

監督とかがあまり変わらないせいかもしれないけど、仮面ライダーの脚本家は毎年気になる。井上敏樹が来るとテンション上がるのですが、宗教映画と名高い『一号』以降見かけない。小説の新刊もないし、残念。

今年の人が何を書いてたかといえば、『電車男』とか『テルマエ・ロマエ』とか言うのが分かりやすいのかな。だが僕的には『家族ゲーム』の人だ。

あのリメイク版で神木隆之介くんのファンになったので、ビルドももっと下品なキャラクター出してほしい。というか、主人公物理学者だし、家庭崩壊(物理)シーンの再来みたいなのあったら良いな。無理かな。

なんにせよ、ストーリーには期待大。

 

で、ここからは愚痴なんですけど、相変わらず効果音ダッセエ!!!!

演出とか変身とかはライダーがカッコよければどうでもよくなるんですよ。ビルドくんはイケメンだから全部まとめて愛せる気がした。だがしかし、ドラマパートのSE。あれか、『クライマックスヒーローズ』から逆輸入して来たのか。

 

なんだよあの「チャック全開の音」……。

 

平成二期は効果音で毎年渋い顔になる。『風都探偵』は音が出ないから読みたい。

Vな日常

朝。目を覚ました僕はまず、スマートホンで時間を確認する。”ギルドデザイン(アウターヘブンのやつ)”のがっしりした重みを感じながら、ロック画面の”TPP壁紙”の上半分を眺め、あなたが眠っていたのは5時間です、という宣告を受ける。眠い目をこすりながらメガネを――”HIDEO GEAR(通称”六万円メガネ”)(”色違いなので実は五万円メガネ”)(”レンズ込みだと七万円メガネ”)”を着用。視界が開ける。

スマホをポケットに突っ込むと、僕は部屋を出てリビングに向かう。短い廊下を渡って、ドアを開くと、あいにくの曇り空。回れ右をして台所に行き、戸棚からマグカップを取り出す。朝は一杯のコーヒーから始まるとかなんとか。

 

コーヒーを注ぐマグカップは何種類かあるけれど、最近よく使うのは”コナミスタイルでMGSHDエディションを買った時についてきた、MGS2MGS3のマグカップ”と、日経スターニューワン賞に入選した際にもらった「ほしづる」のカップ。

前者はまんまMGS仕様だし、後者もなんだかんだで(最終審査員とかで)縁がある一品だ。非常にうがった視点で見てみると、ほしづるってジ・エンドを叩き起こすあいつに似ている。ごめんやっぱ似てない。

 

のんびりコーヒーを飲みながら、スマホでMGSV2周年に関するツイートを漁る。日本の公式はまだ沈黙中だけど、海外コナミはお祝いツイートしてますね。しかしことは政治が絡む。届いたリプライを読むと、海外だと「物語が期待外れだがゲームは良かった」、みたいな評価で定着しているらしい。ゲームごとぶっ叩かれてる日本よりはマシかな。

なんにせよ、「V」を取り巻く状況は世知辛い。現実の世界情勢そっちのけで、僕はMGSVの未来を憂う。

 

なんやかんやで、爆睡中の妹を叩き起こさなければならなくなった。声をかけても起きないし、揺すっても起きない。困った僕は、一度部屋に戻って秘密兵器を取り出す。二年前にゲーセンで取った”「!」マークのアレ”。電源を入れると、センサーに反応して「!」の音が鳴ったり兵士が喋ったりするアレ。

 

久々にアレを手にとって、妹の耳元でスイッチを入れてみる。

 

「!」「敵だァ!」「まずいっ」「CPCPCP!!」

 

妹、一瞬目を開ける。だがすぐに閉じた。Vが目覚めない。

 

せっかくの秘密兵器が通用せず、ふてくされて自室に戻る。十分後に慌てふためく音が聞こえた。

今日は家でのんびりする予定なので、部屋着に袖を通す。タイ人が好みそうな真っ黄色のTシャツ。表にはピースマークが描かれ、背中にはでかでかとビッグボスの顔が。

 

そう、”UT”である。

 

僕は今、”UT”を着ているのである。

 

MGS3のやつも持っていたけど、穴が空いたので着るのやめました。もっと買っときゃ良かったな、と今更ながらに後悔している。

 

着替えと歯磨きが終わり、朝のルーチンが完遂された。暇なのでデスクに向かい、買い換えたばかりのMacBookを開いて、この文章を書き始めた。

 

机の上では、”geccoのビッグボススタチュー”がこちらを睨みつけている——。

 

 

BIGBOSS IS WATCHING ME.

 

 

 

 

 

あ、2周年おめでとうございます。

今日はただの映画の日でした

昨日は完全に勘違いしていたけど、9月1日はMGSVの発売日とは少し違った。

北米版が出たのが今日で、日本発売は明日らしいです。そういやそうだったね。

ちなみに、「永遠の空白」記念日は9月16日です。

 

 今朝は『パターソン』を観てきました。なんでもない日にありがとうするいい映画だった。

ありきたりな時間の流れを詩人の目線で物語ることで、観てる人の「日常」への感度が何倍にも増していく。感度倍増ってどこの薬だよ、と思うかもしれないが、実際想像以上なのだ。アルファ波が出そうなBGMとともに淡い映像が流れ、アダム・ドライバーが詩を朗読する例のシーン。あれは……あれは結構やばいな。

ただ、正直観る前はゲームの方がやりやすい話なんじゃないかと思ってた。RPGのレベリングに代表されるように、ゲーム上の行動は「作業化」しやすい。その上物語として「終わる」必要性もないのだから、物語と日常を完全に融合させてしまうことも可能だ。

ようするに、パターン化された日常を描くなら、やっぱり『どうぶつの森』みたいなゲームにしてしまうのが一番ですよね、という話。

繰り返し行う作業は、やがて人間の意識から忘れ去られていく。通勤時に毎回バスを使っているとしても、いちいち運転手の顔を覚えているわけじゃない。通勤や通学という活動を作業に落とし込み、最終的に全てを「自動化」してしまう。絶え間ない時間の流れを、意識的に追うこともなくなっていく。

じゃあ、日常的な営みを全て自動化させてしまったらどうなるだろう。朝目覚めてから夜眠るまでの行動を、全て作業として成立させてしまっている人。『ハーモニー』のようなフィクションでなくとも、こういう人は実際に大勢いるはずだ。

おそらく、その人は退屈していると思う。

ゲームの場合だと、雑魚戦闘やアイテム集めにはなんらかの「報酬」がついてくる。もともとプレイヤーは全能になれるように仕組まれていて、そうした保証があるからこそ、無限に等しい作業を繰り返せる。どれだけ時間をかけようと、最終的にそれらが無為になることはほとんどない。ストレスを削減する様々なデザインの結果として、ゲームで描かれる「日常」というものはどことなくきらびやかだ(もちろん、例外もたくさんあるのだが)。

現実はどうだろう。日常の短くない時間を「作業」として捧げた上で、それに見合う対価を「必ず」得られるなんてことがあるだろうか。よほど恵まれてない限り、そんなことはあり得ないと思う。

じゃあ、今の日常それ自体に価値を見出すことができるだろうか。それもないよね。だって、僕らが普段やっているのは、意識化するまでもない作業の集積だ。理想や目標といったものを全て削ぎ落とした、いわば「経験値のたまらない雑魚戦闘」のようなもの。多くの人にとって、現実世界の営みなんてその程度の存在だし、個人的にはそれが悪いことだとも思わない。けれど、こうして自動化された日常の中でも、本人の「自意識」そのものが消失しているわけじゃない。だから退屈に思うのだ。

「こんなはずじゃなかった」

適切な報酬を与えられない、「ゲーム」としては破綻した現実世界のことを「不完全」あるいは「未完成」と貶すこともできる(あてつけ)。その上で、少しでも現状をよくしようと働きかける人もいるかもしれない。立派だと思うけど、これができるのがごく一部の勇気と運のある人間だけだろう。

凡人は他の手段を見つけるべきだ。『パターソン』という映画はむしろ、日常の中で忘れ去られて行く「バスの運転手」の視点からで切り取っている。いつも通りの時間に、代わり映えのしない場所へと人々を運んでいく仕事。そこに価値なんかない、と悲観する代わりに、パターソンは詩を書くことに決めたらしい。大勢の日常の一部として、あるいは一人の個人として、彼はより強い感受性を持って世界と向き合う。退屈な作業を受け流さないからこそ、彼の日常は強い物語へと変貌するのだと思う。

日常をそのまま表現するシミュレーターなら、ゲームの方が作りやすい。けれど、日常を物語化するという営みに関しては、映画や小説の方がイケてるかもしれない。想像とは真逆な面白さのある一作だった。

劇殺が悪い

継続力欲しい。正直今は五千兆円より欲しい。

このブログも案の定数ヶ月更新が止まってるし、なんだかやるせなくなっている。

 生まれてこのかた、日記が三日以上続いたためしがない。唯一1週間続いたのが2年前につけていた「夢日記」なんだけど、今読み返しても自分が何を言っているのか全ッ然わからない。どうしてこんなものつけようと思ったのか。どうしてこれだけ一週間続いたのか。全てが謎である。

 ニコニコのブロマガは長文投稿用と割り切って、こっちはあること無いこと書ければいいな、と思っていたのにこのザマですよ。本当ならもっと、勢い重視で行きたかったのに。劇殺器官が悪い。

 はたして、自分が毎日続けられていることってなんなのだろう。

呼吸。睡眠。うんこ。その辺を除けば、毎日しっかりやってることってスプラトゥーンしかないんじゃないか。

そうだ、スプラトゥーンはここ三年くらい欠かさずにやってる。なんでまだ下手くそなんだってキレそうになるくらい遊んでいる。


そんなわけで、スプラトゥーンをなんとか「日記化」できやしないか。そう考えたのが二日前のこと。

昨日と今日は動画を作ってました。名付けて「スプラトゥーン絵日記」。スプラトゥーンの動画に合わせて、日記風の文章をゆっくりボイスで喋らせていく動画。

当たり前なんだけど、問題は時間がかかりすぎることだ。音声は『ゆくも』でつけていたのだけど、三分の動画を作るのに一時間くらいかかりますね(これでも早い方だと思う)。かといって、肉声を晒す気にもなれないので、どうにもなりません。

これ継続できるなら今頃長編小説かけとるわ! という感じ。昨日は一応最後まで作ったんだけど、間違えて動画ファイルをぶっ飛ばしてしまいました。劇殺器官が悪い。

 

イカ日記は潔く諦め、巡り巡って、久々のブログ記事を書いている。もう僕にはこれしかない。

 

 

埋まってくれ、俺の空白。

 

明日はMGSV2周年だし、一応話題に困ることはないね。

 

星新一賞のこと

オタコン、すごいことになった。数ヶ月前に応募した星新一賞ショートショートが、学生部門で入選している。いったい何が起きているんだ。今日は「ラ・ラ・ランド」の公開日だぞ。1日に起こりうるイベントのキャパシティを、明らかに上回っているじゃないか。
世間はプレミアムフライデーの嘘に発狂してるというのに、俺は……。

 

うれしい。うれしすぎる。
生まれて初めて、最後まで書き上げた小説でした。入賞後に言うのは失礼かもしれませんが、正直「うまく書けた」という実感は皆無だったのです。原型を見失うまで文章を弄り続ける、謎の病に精神を蝕まれ……締め切りの寸前まで苦しみもがいておりました。
「文章をいじり倒したくなった時、大抵は構成の段階で失敗している」という知見を得た後、もう諦めて次に行こうと思った時のことです。まさかの3次審査通過を知り、オタコン、まずいことにn(略

手のひらを返すように「BIGBOSS IS WATCHING ME!!」 と周囲にわめき散らした上で、とうとう本日、日経のサイトに名前が載りました。作品名は出ていませんでしたが、当ブログのURLでもある「Frameout」です。受賞するとは思わなかった、という割にブログ名から何から気が早いですね。

まだあまり実感がないのですが、既にTwitterではたくさんの祝福の言葉をいただいており、ありがたい限りです。小説は来月の中旬に無料で掲載されるそうです。よろしくお願いします。

 

 

12日の受賞式に今から緊張している。

21グラムの減量

 劇場版「虐殺器官」のはなし。

 主人公クラヴィス・シェパードの人格は大きく歪められていた。そりゃ、ハーモニーみたいな露骨すぎるプレイは無かったけれど、原作に比べてかなりぞんざいな扱いを受けていると思う。改変、というにはあまりにも原作まんまのセリフ朗読が多く、かといって「死者の国」や「母親」などの動機は最初からなかったことにされる。どちらかというと「空洞化」の方が正しいかもしれない。原作通りの台詞を吐かされているものの、彼は自分のことばに関心を持っていないみたいだった。
 
 つまり、「お前はことばにフェティシュがないようね」
 
 どうしてこうなったのかと考えていると、映画3作品に共通する闇が見えてくる。ご存知の通り、劇場版三部作は伊藤計劃という架空の神様を祭り上げることで成立していた。各種コラボやグッズ展開は本当にお祭り騒ぎになっているので、原作ファンからすればこれは他校の文化祭を見に行くようなもの  というより、母校の文化祭を訪れると「お前何しに来たの?」と笑われるような寂しさに満ちている。もう少しはっきり言うと、これは目に見えた地雷だ。
 全てを承知で地面を踏み込み、案の定右足を吹き飛ばされながら僕が思ったのは、伊藤計劃という作家はこの世で最も神格化に向かない小説家なのではないかということだった。原作のクラヴィスはとても繊細で影響されやすいキャラクターだ。誤解を恐れずにいうならば、これは原作者の影響であったのだと思う。なんせ、虐殺器官という作品は、彼が好きな映画やゲームの一覧表としても機能するくらいだから。原作では時折、別作品のキャラクターやモチーフがそのまま利用されることがある。

プライベート・ライアン」が流れるリビングでドミノ・ピザをかじったり、リボルバー・オセロットがそっくりそのまま登場したり。こうした人や作品に、単なるパロディを通り越した意味を与えてしまうのが伊藤計劃作品の特徴だ。虐殺器官は決して「無」から生み出されたわけではない。ストーリーが「CURE」などの影響を受けているのは有名な話だし、この作品のオリジナリティはようするに、「なぜこの展開が用いられたのかを語る」ことで付与されるものである。虐殺器官とは伊藤計劃を取り囲む状況の物語  つまり、クラヴィス・シェパードの人格を構築するあらゆる事象についての作品だ。

 
 それなのに、劇場版は伊藤計劃を天才として、無から有を生み出す神様として手前勝手に持ち上げてしまった。映画のクラヴィス・シェパード=プロジェクト・イトーは完璧なのだ。彼は周囲の影響なんかものともせず(つまりあらゆるミームを継承せず)、いつも自由意志のみで戦っている。時折「痛いか?」などのひ弱なセリフを呟いてみたりもするが、からっぽになった彼の言動は、いつか「カフカチェコ語で読みたい」と告げた時のような演技にしか見えない。
 映画における彼は、ある意味で原作以上の嘘つきと化している。こうした変化は作品全体に様々な影響を及ぼしていて、たとえば、映画は原作未読者にとって難解な話になってしまった。台詞が難しいからではなく、本来語るべき背景を徹底して排除しているからだ(その証拠に、整合性がちゃんとしてる原作の方は、中学生にだって読破できるはずだ)。
 母親の死を描かないだけでなく、劇場版はクラヴィスの発言の裏にある動機を完全に無化している。たとえば、本作の終盤でクラヴィスはジョン・ポールにこう訴えていた。人間は、選ぶことができる。ぼくは罪を抱えている。選択に対する責任を負うことができる……と。
 原作の場合、この発言の起点はルツィアにあった。クラブの中での「責任」の話。良心のディティールは社会的な産物であり、ミームとして次の世代へと語り継がれる。けれど、ミームや遺伝子は人々を規定するものではない。遺伝や環境に関係なく、人は選択することができるのだから、それらは免罪符になどなり得ない。

ミームのほうが、わたしたちに寄生しているんだもの。わたしたちが考え、決断する、そのこと自体にミームは乗って、人から人へと伝達していく。

 ルツィアのことばにクラヴィスは救われ、ジョンに対する発言も、まさにこの会話の遺伝子を選択した「結果」であったはずなんだけど……映画ではそうした背景が丸ごとカットされている。あれだけ原文ママの朗読会を繰り返してきたというのに、二人の重要な会話だけはなぜか消し去られているのである。

 

(もちろん原作ママもでてこない)

 

 クラヴィスの思想は、突然空から降りてくる。なぜなら彼=伊藤計劃は神だからだ。
 こうしたスタイルの徹底が、劇場版三部作を根本的に歪めてしまった。ハーモニーの御冷ミァハのデザインは、日本人と言われて想像する容貌のマージンからきっちり逸脱しているようにも見えるし、それによって主人公の憧れを性欲ごと刺激した。あの映画がポルノムービーと化したのは、「テーマは百合です」という原作者の言葉に対し、気持ち悪いくらいのマジレスをした結果である。割れ物に触れるような映像化は、結局作品の首を真綿で締めつけただけだった。最終的に、ミァハは痴情のもつれで射殺されてしまい、原作ファンは「冗談じゃない」という思いを胸に劇場を出ることになる。

 

 伊藤計劃作品というのは、根っこの部分で神格化に向いていない。だからこそ、本来であれば劇場版三部作はこう訴えるべきだったのだ。「Project Itohは神ではない」と。

なんだ、宗教の最低の利用法じゃないか。ぼくはぜんぜん無神論者なんかじゃない。そのことに、いま気付いた。

虐殺器官」という作品は、無神論者の主人公自身が神を希求する存在としても描かれている。原作のクラヴィスは、ジョン・ポールに対し何度か「正気」という言葉を用いていた。現実の伊藤計劃もまた、自らが敬愛したある人物に対しこの言葉を使っている。小島秀夫監督だ。
 別に「ジョン=HIDEO説」を打ち立てたいわけじゃない。ここで言いたいのは、伊藤計劃はジョン・ポールを明確な「他者」として描いているということ。そして、虐殺器官という作品はやはり、主人公がジョンを「追う」意味の物語だということだ。

世界の混沌を冷静に指差し、先回りで行動できるどこかの誰か。
絶望を動機とせず、あくまで限定された人々の幸福を願って虐殺を重ねた「正気の人」  ジョン・ポールとはそういう男だった。

 劇場版はジョンの方に伊藤計劃を投影している節があるがそれもおかしい。むしろ、彼のことばに対するアンサーとして原作のエピローグは強烈なものになったのだ。受け止めるべき主体性を欠いた映画のクラヴィスに、はたしてあのラストは再現できただろうか? ……できるはずがない。
 この映画は失敗した。誰がなんと言おうと間違っていた。
 ただただ無意味な叙事として、「虐殺器官」はあっけなく終わってしまう。本作は伊藤計劃を祭り上げ、それ故に彼をどこにでもいる天才として消費してしまったのだ。様々な映画やゲームに対して、あれだけ優れた解釈を導いてきた原作者の映像化なのに  伊藤計劃を物語ることばの方は、どうしてここまでずさんなのだろう。

 

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 正気じゃないな、と思いながらぼくは作草部でラーメンをすする。

 けれど、パク・チャヌク監督と小島監督のツーショットを見ていると、すこしだけ気持ちがやわらいだ。